見出し画像

体験格差よりも「格差を体験すること」の方がずっと残酷だと思う理由

先日、体験格差について考えてみたけれど、しつこくその続き。

学校の作文に書くような楽しい経験はすっかり忘れていたりするけれど、「格差を感じた体験」は強烈に記憶に残っている。


例えば子どもの頃、友達を真似てピアノを習っていた。
10年近く習っていたはずなのに、記憶に残っているのは、レッスンや発表会ではなく、全国レベルのコンクールに出場している同年代の子のものすごい演奏を聴いて、自分とのレベルの差に愕然としてやる気をなくしたことの方だ。


アメリカの高校に留学した際、一番カルチャーショックを受けたのは、アメリカの生活や習慣ではなく、アメリカが全く好きじゃないのに親に言われてしぶしぶ留学しているという子たちに出会ったことだった。

衝撃だった。

親に言われたからと素直に言うことを聞く高校生がいるということ。
そして、子どもが望んでいないことに大金を出す余裕のある家庭があるということに。
自分にとって進路は自分で選ぶもので、誰かの意思に従う気は全くなかったし、それに対して親はしぶしぶお金を出すものだと思っていた…


例えば大学の同級生。
東京圏出身の子たちは、まっすぐで自信を身にまとっていて、チャンスには臆さず手を伸ばす雰囲気があった。
それに対して地方組、特に県庁所在地でもない田舎の出身者は、同じ試験をクリアしてきたというのに、私と同様に、どことなく屈折していて卑下しがちな人が多かった。

ずっとその理由は分からなかったけれど、最近になって中学受験マンガ「二月の勝者」を読んでいたとき、大学で出会った東京圏出身の同級生が、作中にモデルとして登場するようないわゆる有名私立中高の卒業生ばかりということに気が付いた。

知的にも経済的にも同質性の高い人としか出会わなければ、格差を経験することもないし、だからこそまっすぐでいられるんじゃないだろうか?

都会の私立の学校でなら、生活保護家庭でネグレクトされているクラスメートの隣の席になったり、ヤンキー男子の勉強を見てやれと言われたりする体験はしなくてすむ。

上との格差を体験するのも、下との格差を体験するのも、同じように心に葛藤を生み出す。
格差の経験は、できるだけしない方がいい負の体験なのでは?


「インドに行くと人生観が変わる」とはよく言われるけれど、おそらくインドで初めて格差を体験した人の感想だろう。
富裕層しか入れないエアコンが効いた店の前を、物乞いと野良牛が行きかう。インドでは格差が目に見える形で混在しているから。

今頃になって「体験格差」と言われるようになったけれど、格差は常にずっとあった。格差が広がったわけではなく、スマホの普及で「格差が見える化」してしまっただけのように思う。

ロンドンでは、居住地の郵便番号と話す英語のアクセントでその人の階層が分かるとか。
日本は階層別にスマホの周波数帯でも分けて、お金持ちのSNSは見れなくするのはどうだろう?
格差を体験しなければ、幸せでいられるかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?