どうして人はコオロギ食にモヤモヤするのか

イナゴを食べる地域に生まれ育った。
あの頃、稲刈り前の田んぼには大量のイナゴが飛び交い、子どもでも簡単に取れて、手ぬぐいで作られた袋はすぐにいっぱいになった。
2匹組のが取れると嬉しかった。上のが少し小さいので、親が子を背負っているのだとずっと思っていたけれど、実はつがいで上が雄だということをだいぶ後になって知った。

家に持ち帰ってからは下処理の手伝い。
台所の床に敷いたゴザに広げられた山盛りのイナゴ。酸欠状態で瀕死のイナゴの足と羽をもぐという、何ともエグい作業だけど、お小遣いをもらえるので喜んでやっていた。今なら児童労働?いろんな意味でNGになりそうな光景だ。

その後の過程は知らないけれど、ばあちゃんが大量の砂糖を投入して作るらしい佃煮は、もうイナゴの形状を残しておらず、ご飯にのせて食べるとおいしかった。
出荷もしていたのか、あんなに大量に採ったのに長期間延々と食卓にのぼることはなく、その時期限定のちょっとしたおかずの扱いだった。

稲の品種や農薬が変わったのか、稲刈り機が使われるようになったからか、理由はわからないけれど、ほどなくしてイナゴ採りをすることはなくなり、イナゴ自体を見かけなくなっていった。


イナゴ食べれるなら、虫とか余裕で食べれるんだ!というとそうでもない。

とあるイベントで初めてハチの子ご飯に対面したときは、「なんで白(幼虫)と黒(さなぎ?)が混在してるんじゃい⁇」と心中で毒づきながら、目を逸らして口にかきこんだ。

中国の観光屋台で見かけるトノサマバッタやタガメの串焼きも、海鮮レストランのバケツで元気よく泳ぐ大きなゲンゴロウ(日本人には水ゴキブリと呼ばれていた)も、食べる勇気はなかった。
イナゴですら、いま出されたら絶対に食べれる自信はない。

そんな訳で昆虫食への嫌悪感も分かるし、食べたい人は食べればいいだけで、どうして世論を二分するほどの議論になっているのかイマイチ理解できなかった。


そんな最中に配信されたNewsPicksのビジネスピッチ番組で、カブトムシ事業のスタートアップを堀江さんや出演投資家の方々が絶賛していた。

カブトムシはペットとして高額で取引され、コオロギはペットニーズはほとんどないという点では異なっているけれど、有機産廃を虫で処理して、最終的にタンパク源としての活用を想定しているという点で、ビジネスモデルとしてはさほど変わらない気がする。

なのに、カブトムシはウケて、コオロギは不評をかうのはどうしてなんだろう?しばらく考えて思いついた、その違いは

ワクワクするかどうか

カブトムシはワクワクする。
カブトムシ事業の方は、ペットニーズの他に、SDGsイベントの集客用途なども想定しているそうだけれど、図鑑でしか見たことがないヘラクレスやコーサカスオオカブトがわんさか見れるとしたら?確実に人が集まりそうだ。

中国では、ゴキブリで生ごみを処理するリサイクル工場があるらしい。
生ごみの山とゴキブリ… 想像するだけでもかなりのグロテクスさだけれど、一目見てみたいと思ってしまう自分もいる。怖いもの見たさ?好奇心?
そういえば、目黒寄生虫館には、ビルゲイツさんも行ってたなぁ。

コオロギも、ゲテモノバーのおつまみだったり、ハチの子のように珍味の地域みやげとしてだったら、ワクワク消費としてなら意外と食べれてしまうかもしれない。

でも、単なる栄養素として粉末にして目に見えない形で混ぜ込まれて、給食で無条件に食べさせられるとなると、どこにもワクワクポイントが見つけられない。


昆虫食はいずれ来るであろう食糧危機に備えて~というお題目だそうだけれど、虫ってそもそも小さいから、手間ヒマかかってめんどくさいし、腹の足しにならないんだよね… と元食虫民は思う。

タンパク源が必要なら、日本に限って言えば、味にクセがあるとか小骨が多いとか見た目がグロいとかの理由で人気がなく、地元で細々と消費されるか廃棄されている魚がたくさんあるはず。最近は学校給食でこういった地元魚を活用していたりするけど、レシピが工夫されていておいしかったりする。

害獣駆除されたジビエ肉もほとんど流通していない、という記事もあった。腹の足しにならない小さな昆虫をタンパク源としてわざわざ飼育するより、廃棄されている魚や肉を活用する方がいいのでは。

栄養素としてなら、薬品やサプリに活用するのはどうだろう?
食体験にはワクワクが欲しいけど、薬やサプリに期待されるのは効果だけで、ワクワクは必要ない。
中国の漢方薬局で調合してもらう生薬には、セミの抜け殻がコロンと入っていたりするけど、何とも思わないなぁ。薬だし。効けばそれでよし。
コオロギも漢方ニーズはないんだろうか?


こんまりさんの「ときめきメソッド」のように、「ワクワクするかどうか」で判断すると、世の中がシンプルで分かりやすくなる気がする。

当時、平気でイナゴを食べれたのは、イナゴ採りでのワクワク感が前提にあり、どこか自分の手柄のような得意げな気持ちがあったからだと思う。

今でも脳裏にクリアに浮かび上がる山盛りのイナゴ。
娯楽がない田舎町では、恐らくイナゴ採りは数少ないビッグイベントの一つだったんだろう。田植えや稲刈りとは違って、子どもでも一人前に活躍できるのも、格別に嬉しかったのかもしれない。

あんな風にワクワクした体験は、直近ではいつだった?まるで浮かばない。

陽の光を背に稲穂をかきわけながらイナゴを追うのも、夜に街灯めぐりをしてカブトムシやクワガタを見つけたときの高揚感も、今となってはいくら大金をはたいても買えない体験かもしれない。


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