見出し画像

言語幻想

仕事で翻訳の真似事のようなことをしてみたり、他人様が書いたものを直したり、というようなことをしている。言葉を別の言語に置き換えるというのは、基本的に不可能だと思っている。イメージで言うと、木彫りの仏像をレゴブロックで写すのが翻訳というものではないかと思うのである。レゴブロックには組み立ての技能についての認証制度があって、そういう認証を受けた人が作るものはたいへん精巧だ。レゴブロックで作ったものを見れば、容易にオリジナルを認識したり想像したりすることができる。しかし、オリジナルとは別物なのである。大まかな全体像を伝えることはできても、細かな技であるとか、込められて想いは伝わらない、と思う。

漢字は大陸から伝えられたものだ。しかし、文字と読みの音と字義は日本語に取り込まれたが、日本語は中国語にはならなかった。なぜだろう?たぶん日本語にとって漢字はブロックのピースのようなものなのだ。まず言葉があって、はじめはそれだけで足りていたのだけれど、社会が大きくなって記録や伝達に文字が必要になって、たまたま付き合いのあった近所の先進地域から文字を持ち込んだ、というようなことではないのだろうか。

Aという言語とBという言語があって、もし完璧に相互に翻訳ができるとしたら、AとBと両方存在する必要はないだろう。そうやって消滅した言語はたくさんあるはずだ。現在、少なくとも大勢の人が母語として使う言語として存在している言語は、どこか根本的なところに他の言語では代替できないものを抱えているのだと思う。

あくまでも個人的な感想だが、日本語というのはお互いによく知った者どうしの言語だと思う。わざわざ言葉にしなくてもわかるものを共有していて、全部を語らなくても物事がなんとなく進行するところの言語だと思う。世界のあちこちで使われている言語、世界のあちこちで植民地を経営した国の言語というのは、知らない者どうしが、必要最小限のことを効率よく伝達するのに都合の良い造りになっていると思う。日本語とそういう言語を相互に翻訳するというのは並大抵のことではないのである。

俳句や短歌は短い。五七五とか、五七五七七とか、それで何を伝えることができるのだろうか、と心配になる。しかし、ずいぶん長い間、歌がほぼ同じ形式で存在し、表記は現代語に改められているものの、『万葉集』は現在でも書店で当たり前に買うことができる。それはたぶん、五七五や五七五七七で十分に多くのことを伝えることができるからだ。世界的にみれば、これは相当驚異的なことだと思うのである。日本語というのは、たぶん、歌を詠まないとほんとうのところはわからないのではないか。歌を詠むことで、言葉にしなくても伝わる、共有している何かを想うことができるのではないか。

読んでいただくことが何よりのサポートです。よろしくお願いいたします。