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近藤義郎 『前方後円墳の時代』 岩波文庫

権力や権勢を表現するのに、それが脆弱であるほど大掛かりな装置を必要する、ということが言える気がする。もっと卑近なところに引き寄せて考えると、中身の薄い奴ほど大言壮語をする、落ち目になると自慢話が多くなる、弱い犬ほどよく吠える、というようなことだろうか。ちょっと違うか。それにしても、巨大墳墓は何のために営造されたのだろう?

「古墳」というと仁徳天皇陵をはじめとする近畿地方の巨大古墳が真っ先に思い浮かぶのだが、都内やその周辺でも結構ある。例えば上野毛の五島美術館の敷地内に稲荷丸古墳がある。上野毛にはこのほかにいくつかあるようだ。大概、古墳というものは複数がまとまっている。埼玉県行田市にある埼玉古墳群はかなりの規模の古墳群で、その中にある稲荷山古墳ははっきりとした前方後円墳だ。稲荷山古墳からは金象嵌による文字が刻まれた鉄剣が出土しており、数少ない埼玉産国宝の一つである。また、同古墳群のなかの丸墓山古墳は秀吉の小田原征伐において石田三成が北条方である忍城を攻める際に陣を張った場所として有名だ。忍城攻めについては「のぼうの城」という小説映画にもなっているが、小田原が落ちた後も降伏せずに耐え抜いたことで知られている。

それで、前方後円墳だが、その前に古墳の成立ということを考えないといけない。弥生時代前期後葉に畿内において始まったと見られる方形周溝墓は、平坦な丘頂や沖積微高地などにおいて集落に近接して営まれることが多く、弥生後期の墳丘墓・台状墓は、集落からはなれ、低い山や丘陵の頂上や尾根といった個所に営造されることが多いという。そして時代が下る中で規模が巨大化し、それとともに形式の統一性と画一性が見られるようになる。そうした流れが、一気に前方後円墳に飛躍するのだという。

前方後円墳の見た目の形と巨大さ以外の特徴の主要なものは埋葬品である鏡の多量副葬指向だそうだ。この鏡が畿内の政治勢力、大和連合から配布されたものであることが明らかなのだという。日本という国家がはっきりとした姿になるかならないかの頃、大和連合が急速に勢力範囲を拡大した証左が前方後円墳の分布に見て取れるというわけだ。その巨大化のピークが通称「仁徳天皇陵」、正式には「大仙陵古墳」であるが、学術的には埋葬者は特定されていない。宮内庁により仁徳天皇の陵墓に治定されているが、何か根拠があるのか、既に「仁徳天皇陵」との呼称が定着していたのでそういうことになったのか、私は知らない。

宮内庁の天皇系図の中で前方後円墳が陵墓として治定されている天皇は8代孝元天皇から30代敏達天皇までであり、同系図での年代では紀元前2世紀から紀元後6世紀までの約800年ほどの期間ということになる。ここで問題がある。そもそも紀元前2世紀に日本は国の体を成していない。紀元前2世紀といえば中国が前漢(B.C.202-A.D.8年)の時代で、朝鮮半島ではその前漢から逃れてきた衛満が国らしきものを建てたとされる頃、日本は弥生時代の真っ只中だ。仮に遺体遺品を収めるために没後何十年何百年後に天皇陵を造営するにしても、国の体がない時代のナントカ天皇陵ができるはずがないのである。では、宮内庁が嘘をついているのか。そういうことではなく、そういうことにしておいた方がもろもろ収まりが良いというだけのことだろう。大昔に終わってしまったことをあれこれ言ったところで何も始まらない。歴史というのは、その時代その時代に都合の良いように作るものだ。

前方後円墳は副葬品などの分析から、3世紀後半から6世紀にかけての約200年ほどの間に営造されたものということになっている。当時の国力がどれほどのものであったのかは知らないが、古墳はそれ自体何も生み出さない。再生産サイクルに組み込むことのできないものを作るのに多大なコストを投じるのは外部不経済であり、消費蕩尽である。そんなことに国を挙げていたら国を維持することはできない。国家の権威と威信の表現として巨大墳墓を建設したのだろうが、それがために国が滅んだら笑い話にもならない。どれほど国力があろうと、どれほど国家の威信が強かろうと、国のあちこちに規格化された巨大墳墓をボコボコ造るお祭り騒ぎのようなことができるのはせいぜい200年かそこらのことだったということだろう。

また、前方後円墳は広範囲に大きな時間差なしに出現している。形状が規格化されているかのようであるだけでなく、古墳表層に円筒埴輪が並べられていたと見られている。この円筒埴輪の原型は吉備の特殊器台という土器が原型とされている。副葬品で重要な鏡に「三角縁神獣鏡」と呼ばれるものがあるが、これは中国産なのに中国では出土していない。当時はまだ「日本」ではなく「倭」であったところへ向けて特注品として大量に作られた同笵鏡(同じ鋳型で作られた鏡)で大和政権で入手・保管されて各地首長に配布されたものらしい。倭の権力者が中国王朝との政治的結びつきにより入手した物だろうが、その輸送ルートの日本側の起点は九州北部。既に瀬戸内海の海路は確立されていたと見られ、九州と大和とは安定的に交流がなされていたはずだ。つまり、前方後円墳は大和発の一方的なものではなく、当時のオールジャパン的な総合造営物と見ることができ、大和政権が連合政権的なものであったことを示唆するものと言える。

先ほど「消費蕩尽」と書いたが、そうすることで下々に権威を感じさせることができる。身近に見たこともないような立派な鏡だとか剣だとか諸々をこれでもかという量まとめて副葬してしまうことを目の当たりにすれば、おそらく大衆は平伏する。「えぇぇ、きっついなぁ、、、」と思いながらも、古墳造営に労働力を差し出せとお上からお達しが来れば、「逆らうとタメにならんだろうしなぁ」と従うことになるだろう。それと外部不経済を可能にするには余剰生産物がないといけない。つまり経済に余裕がないといけない。民衆の側に労働力を提供する余裕があったということでもある。人を動かすのに何が必要か、ということはよく考えないといけない。

『季刊大林』の1985年 No.20に「現代技術と古代技術の比較による仁徳天皇陵の建設」という記事がある。これによると、仮に人間だけで(牛馬を使わず)、1日8時間、月25日間労働で建設すると約16−17年、1985年基準で約800億円を要するという。1985年の名目GDPは約330兆円、中央財政の歳出は一般会計が53兆円、特別会計が111.8兆円。単純に比較はできないが、ざっくり言えば、消費蕩尽ではなしに社会の安定化費用と考えれば、決して無茶ではなかったと思う。歴史を見れば明らかなように、それでも国家安寧というわけにはいかなかった。ただ、そもそも今が「安寧」と言えるのか?

ちなみに天皇の名は、奈良時代後半に淡海三船が天皇の命により、神武天皇から元正天皇まで一括して撰進したものである(当時既に諡号を贈られていた文武天皇を除く)とされる。淡海三船は天智天皇(在位:668-671年)の玄孫、大友皇子の曾孫。記紀に記されていたのは和風諱号だ。例えば神武天皇は「神日本磐余彦」。諡号には漢風諡号と和風諡号の二種類があり、現在広く通用しているのは漢風諡号である。漢風諡号は中国の例に習い生前の特徴や功績を漢字二文字で表現したものだ。『万葉集』巻一・巻二にある天皇の名は諡号によるものではなく、それぞれの天皇の宮殿の名に準ずる。例えば、巻一の巻頭を飾るのは雄略天皇(在位:456-479年)の御製歌(という立て付け)だが、『万葉集』に「雄略天皇」とは書いてない。「泊瀬朝倉宮に宇御めたまひし天皇(はつせのあさくらのみやにあめのしたをさめたまひしすめらのみこと)」であり、藤原京に遷都した持統天皇(在位:690-697年)は「藤原宮に天の下治めたまひし天皇」。かつて、天皇が代わる毎に遷都していたので、それで良かったのである。国の成長とともに首都も大規模になり簡単に遷都できなくなった奈良時代以降は、漢風諡号の時代でもある。明治天皇(在位:1867-1912年)から昭和天皇(在位:1926-1989年)までは諡号は元号とほぼ一致させてあるが、それはむしろ例外的とも言える。

話は前方後円墳に戻るが、あちこちに多数造営されるようになった前方後円墳が、造営されなくなるのは6世紀以降のこと。天皇の陵墓に限って見てゆくと、『万葉集』に登場する雄略天皇の陵墓は、その候補として名が挙げられる河内大塚山古墳は前方後円墳だが、宮内庁によって治定されているのは島泉丸山古墳という円墳と島泉平塚古墳という方墳の二基。写真で見ると前方後円墳をつくるつもりが、うっかり二つになってしまった、と見えなくもない。続く清寧天皇(在位:480-484年)、顕宗天皇(在位:485-487年)、仁賢天皇(在位:488-498年)の陵墓は前方後円墳だが、武烈天皇(在位:498-506年)は山形墳。継体天皇(在位:507-531年)は宮内庁治定の太田茶臼山古墳も、歴史学界で定説とされている今城塚古墳も前方後円墳だが、太田茶臼山古墳は築造が5世紀中頃とされ、天皇在位前から存在することになってしまう。そういうこともあって6世紀前半築造とされる今城塚古墳がそれらしいということになるのだろう。安閑天皇(在位:531-535年)、宣化天皇(在位:535-539年)、欽明天皇(在位:539-571年)、敏達天皇(在位:572-585年)は前方後円墳。次の用明天皇(在位:585-587年)以降は前方後円墳ではなくなる。

注目すべきは、欽明天皇の時代に仏教公伝があることだ。ただし、何を以って「仏教公伝」とするかについては諸説あるようだ。大昔のことなので仕方がない。政権内部抗争は当然にあっただろうが、大和政権そのものは権力としてほぼ定着して、もはや「どうだ、すげーぞ」というような物理的な装置としての古墳が必要なくなったということもあるだろうし、宗教というよりも哲学・思想科学としての仏教の伝来で、「これからは頭の時代ですよ」というような風潮も醸成されたのかもしれない。人々の社会が社会として成熟して秩序が堅固になり、自然に身の丈にあった暮らしを営むような習慣が定着したのかもしれない。いずれにしても前方後円墳が営造されなくなった時期と仏教の伝来が重なっているというのは説得力があり、偶然ではあるまい。

たぶん、人は一つの大きな軸を基準にして自分の置かれた世界を理解する。特定の宗教の教義のような浅薄なことではなく、世の中を見る時の漠然とした座標軸を誰もが持っている。しかし、そこに全幅の信頼を寄せているわけではない。己の未知なることが底知れぬ闇のように眼前に横たわっていることは意識するとしないとにかかわらずわかっていて、そのことへの不安は常に感じている。不安は不快で本能的にその不安を解消しようとする。例えば、未知なるものはないと思い込む、浅薄な教義とかブランド(所謂既成宗教や「科学」)に縋る、といったような風に。おそらく、巨大古墳の世界観と大陸伝来の仏教のそれとは相容れなかったのだろう。そして、古墳的世界観の勢力と伝来仏教的世界観の勢力との政治的抗争で後者が前者を駆逐したということもあっただろう。最後に前方後円墳に祀られた敏達天皇から15代後の聖武天皇(在位:724-749年)の治世には巨大な大仏の鋳造が始まり、次代の孝謙天皇(在位:749-758年)の治世である天平勝宝4年(752年)に完成して開眼会が挙行される。やっぱり人は大きいもの、わかりやすいものを選好するらしい。

いつの時代でも、一見尤もらしいが本当のところはわからないものが政治に利用されて権力が増強されたり滅亡したりする。「宗教」というと今の時代の人はちょっとspeculativeなことのように捉えがちだが、世界観とか倫理観のような社会に通底する核となるものの考え方と見るならば、古墳時代が仏教の時代に取って代わられるというのは興味深いことである。わずか100年かそこらで「正しい」ことは変わってしまうのだ。今の時代だって、資本主義と社会主義・共産主義とのイデオロギーの対立がかなり最近まであったのが、コロッと変わってしまったりする。少し前に遡れば、「鬼畜米英」なんて言っていたのが、敗戦後は上から下まで国民が先を争うように進駐軍に媚びを売る国もある。そういうネタとして環境問題を捉えることもできるだろう。感染症問題も広義の環境問題であり、それがもとになって思いがけない大変化が起こるのかも知れない。

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