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隅鬼告白

軒下で見つめる先に竜田姫
(のきしたで みつめるさきに たつたひめ)

軒下でじっと見つめる竜田姫
(のきしたで じっとみつめる たつたひめ)

竜田姫想うだけでも赤くなり
(たつたひめ おもうだけでも あかくなり)

季語は竜田姫、秋。岩船寺の塔には各層の軒の四隅に隅鬼が据えてある。この寺のアイコンにもなっているらしく、隅鬼をデザインしたTシャツなどが御守りと一緒に並べてある。買おうかなとも思ったのだが、やめた。

岩船寺の御本尊は阿弥陀如来。欅の一木造りで行基の作と伝えられる。胎内の墨書銘から天慶9年 (946年)作と推定されている。光背は正面から見て仏像より一回り大きい程度の簡素なもので、そうしたことからも10世紀中期の作であることが推定される、とのこと。時代が100年ほど下って宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来となると、舟形の大きな光背になる。隅鬼が棲む三重塔は御本尊よりも前の承和年間の建立と伝えられているが、現存するものは嘉吉2年 (1442年)の建立らしい。隅鬼が当初の建立時からあったものなのか、現存するものにはあっても当初のものにはなかったのか、知らない。

仏像も建物も、時代とともに変化する。仏の世界、人の世界に対する考え方が変わるということもあるだろうし、なによりも知識と技術が変化する。世間ではそういうことを無造作に「進歩」と呼んだりする。しかし、時間を重ねるとそれまで出来なかったことができるようになることもあるが、できたことが出来なくなるということもある。

「伝統工芸」と呼ばれるものには、そう呼んで意識的に保存を図らなければならない技術技巧がたくさんある。また、そうした技術を用いるものが生活のなかで使われ続けなければ、そのための用材も道具も供給できる人がいなくなってしまう。いわゆる文化財や正倉院御物のようなものは、そう遠くない将来に維持不可能となるだろう。文化財としてしか存在できないということは、それを生産、維持、補修し続けるに足る市場性が維持できないということでもある。また、生活から乖離した状態が長く続けば、そもそもそれが何なのかわからなくなってしまう。かくして、人の生活は過去から分離されてしまう。過去のない人は人ではない。結局、市場の中で取り引きされる財貨のひとつでしかなくなるのである。

そのうち、顔を赤らめて誰かに告白するなんてことも「文化財」になるのだろう。少子化だの未婚率の上昇だのといったことは、育児施設の拡充で歯止めをかける類のことではない気がする。


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