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1985年2月19日 コロンボからマドラス

むっとする暑さだった。現地時間午前1時20分、コロンボ(Colombo)に着いた。熱帯らしい重苦しい暑さのなか、タラップを降り、大韓航空のジャンボ機を後にした。ここで降りたのは30人ほどだったが、その殆どが日本人だった。このうち、私と同じマップの旅行で来ているのは私の他に井上、佐賀、佐藤、柳橋の4人だった。井上君以外は大学4年生である。井上君はまだ3年生ということもあり、他の4人より帰国が2週間ほど遅い。佐賀、佐藤、柳橋の3人とは約1ヶ月後にカルカッタで再会することになる。タラップを降りたところで我々5人に10日間のスリランカ旅行にやってきた筑波大の女の子2人を加えて、大韓航空機をバックに写真を撮った。小さなターミナルビルのなかで入国手続きを済ませると、私たち5人は迎えの車でホテルへ向かった。

空港からホテルまでの道には驚くほど何もない。街灯も殆どない真っ暗闇のなかを、車のヘッドライトだけが頼りなのに、恐ろしいようなスピードで突っ走った。外は暗くて様子がわからないのだが、窓から吹き込んでくる風がなんとなく南の島らしく感じられた。

ホテルは Palm Village という少し高級な感じのするリゾートホテルだった。どんなホテルであるかなど、ここではどうでも良いことだ。私も同室の佐藤君も取りあえず寝た。私たちの部屋のテラスからはそのまま海岸に出られるようになっていた。朝方、海岸を散歩してみると、すぐ近くが漁村らしく、カヌーと筏の中間のような小舟が海老や小魚を載せて漁から帰って来るところだった。海岸では地元の若者が話しかけてきたりするのだが、私は警戒心が先にたってしまい、素直に打ち解けることもできず、少し戸惑ったまま適当に話をして、ホテルに戻ってしまった。

もともとスリランカに立ち寄る予定はなく、インド往復のチケットを取るのに、たまたまコロンボ経由になってしまっただけなので、少しでも早くインドへ行くことを考えた。私は他の4人より早めに朝食を済ませるとすぐにチェックアウトした。ちょうどカウンターのところに、昨晩、というか今朝の思いきり早い時間に空港へ出迎えに来てくれた現地の旅行会社の人がおり、コロンボ市街へ車で送ってくれるという話になった。まだ2回しか会ったことのない人からの誘いではあったが、迷うことなく好意に甘えた。彼はスリランカの人なのだが美しい日本語を話した。小田原で4年ほど暮らしたことがあるそうだ。今は旅行会社で主に日本人観光客の誘致の仕事をしているという。

ホテル周辺は漁村だそうだ。道端の風景はのどかである。牛車が行き交い、川では洗濯する人や身体を洗う人などが各自の行為に精を出していた。南の島らしいのは川岸に椰子の木が並んでいることだ。やはりこれがないと南の島という感じがしない。今、スリランカは内戦の最中である。空港に着いてから今まで、戦いが行われていることを示すような光景には出会わなかったが、コロンボ市街への入り口にあたる橋のたもとで初めてそれらしいものと遭遇した。兵士による検問である。トラックやバンのような荷物を運ぶ車を中心に厳しい検査を受けていた。聞くところによれば、これはヒンドゥー教徒で総人口の13%を占めるタミール人が独立を求めたのに対し、仏教徒で総人口の約9割近くを占めるシンハリ人が反発することによって始まった紛争なのだそうだ。タミール人、シンハリ人双方に言い分があるのだろうが、現状では事態の収拾は期待薄となっており、北部地域ではかなり頻繁に武力衝突が起こっているそうだ。我々の車は勿論、難なく検問を通過した。市街に入ると人も車も俄然多くなる。交通ルールのようなものは無きに等しく、人も車も互いに没交渉のまま自己主張をしている。それでも殺気立ったところは感じられず、どこか暢気な風でもある。

オフィス街風の所で車から降ろしてもらい、AIR LANKA のオフィスでインドへの航空券を求める。車を降りるとすぐに土産用の切手セットを売り歩いているオッサンに捕まってしまったが、殆ど無視してビルの中へ入って行く。入り口でセキュリティーチェックがあり荷物を預けさせられた。なかに入ると外の喧噪が嘘のようで、エアコンだけが静かに唸っている。空いているカウンターへ行き、最も安いインドへのフライトを所望した。一番安いのはトリヴァンドラム (Trivandrum) へのフライトだが、これは26日以降の便しかないという。次に安いのはティルチラパッリ (Tiruchchirappalli) だが、これも3日後以降の便しか取れないという。今日出発できる便のなかではマドラス (Madras) へ飛ぶのが最も安いというのでそれを予約した。値段は1,400スリランカルピー、日本円で約14,000円である。高い、と思った。

フライトを予約し、やれやれと思って外へ出ると、さっきの土産売りのオッサンがまだいた。あきらめもせずにつきまとってくるのだが、こちらもあきらめずに無視し続ける。ホテルの部屋に備えつけてあったレターセットを手に入れておいたので、それで早速日本へ手紙を書こうと郵便局へ入った。こういうところにはオッサンは何故かついてこない。郵便局のなかで適当な場所を見つけて手紙を書く。書きあがった手紙を封筒に入れ、備えつけのシロップのようにゆるい糊で封をして窓口に差し出す。

手紙を出し、やれやれと思って外へ出ると、さっきの土産売りのオッサンがまだいた。あまりのしつこさにとうとう根負けしてしまい、彼に食事を振る舞うことでお引きとり願うことにした。彼は迷うことなく裏道に面した小綺麗な食堂へと私を案内した。そこのオヤジとは顔見知りであるようだが、オヤジは彼を見下している印象を受けた。一目で外国人と判る私に対しては愛想が良かった。

席につくと湯を満たしたコップと大きな皿が一人にひとつづつ出される。テーブルの上には既に直径20cm程度のプラスチック製の赤いボールがのっていた。私にはこれらをどうするのかわからないのでオッサンの動作をそのまま真似ることにする。まず、コップの湯で皿をゆすぎ、その湯を赤いボールに捨てる。その時、ついでに自分の手も洗っておく。すると店のオヤジが筒状に固められたご飯が何本ものった大皿を持ってくる。その筒状のご飯を一つ自分の皿に取り右手で崩す。その間に、オヤジはオッサンが注文したカレーのようなものが入った小皿を二つ持ってきた。崩したご飯の上にそのカレーをかけ、右手でこねくりまわしながら一口大のかたまりを作って、それをパワーショベルの腕のような動作で口に運ぶのである。慣れないと手がカレーにまみれてどうしょうもなくなってしまうのだが、オッサンの手は指の第二関節より先にしかカレーがついていない。やけに器用だなどと妙に感心してしまう。食堂のオヤジは気を利かせたつもりで、私にフォークとスプーンを用意してくれた。この食堂ではフォークやスプーンを使って食事をする客はとても珍しいようだ。私の前に置かれたフォークとスプーンには錆が浮いていた。私はカレーの味はわからなかった。とにかく辛くて一口分を飲み込むのがやっとであった。しかし、腹がへっていたので他の食べ物を頼んでみた。次に食べたのは春巻き状の揚げ物である。2~3mm厚の皮に包まれているのはカレー味の野菜炒めであった。カレーほどではなかったが、やはり辛かった。それでも一個食べた。仕方がないので食パンにバターを塗って食べた。「食べた」というよりファンタオレンジで流し込んだ。このファンタオレンジはオッサンのリクエストである。スリランカに来てファンタなんぞを口にするとは想像もしていなかった。食べ終わると大きなコップに水がなみなみと注がれる。これは飲むためのものではない。この水で手を洗うのである。こうしてほっとした気分になると、煙草を吸いたくなる人がいる。オッサンは私に断りもなく煙草を一箱注文してしまった。結局、ここの勘定は150ルピーとなり、空港税としてとっておいた100ルピーを使うはめになってしまった。ところでオッサンは22歳だそうだ。しかも妻子がいるという。同じ年に生まれながら、その場所が違うだけで片や日々の生活の糧を得るために四苦八苦している生活人、片やフーテンの観光客というのは少々衝撃的だった。食堂を出るとオッサンはご機嫌でどこへともなく消えてしまった。

街は多様な人々で溢れていた。東京では誰も彼も似たような格好で歩いているが、ここでは外見も動作もバラバラである。オッサンのように素足であるいているのもいれば、ピカピカに磨き上げられた革靴をはいてスーツを決めている人もいる。長いスカートのような民族衣装の人もいれば、裸同然の人もいる。乞食もいれば、それに小銭をやるのもいる。だけどみんな元気そうだ。私だけが暑さと土地への不慣れさで参っているように感じられた。

空港税用にとっておいた100ルピーを使ってしまったので、アメリカンエクスプレスのオフィスへ行ってT/Cを換金する。エア・ランカと同様、ここでも建物の入り口で荷物のチェックを受ける。中はやはりエアコンが効いていたが、少々混雑していた。ここで10ドル分を現金化する。外に出ると陽はいよいよ高くなり、暑さも一段と厳しくなった。

空港へのアクセスを確認しようと思い、ツーリストインフォメーションへ行くことにした。ところが道を尋ねる人毎に答えが微妙に違っていていつまで歩いても見つからない。何人もの人に尋ねてようやく中央郵便局近辺であることまでは絞り込めたのだが、そこから先が特定できないのである。仕方がないのでツーリストインフォメーションは諦めて、中央駅へ行ってみた。駅前には様々な行き先のマイクロバスが停まっており、そのなかの一台の運転手に空港へ行くバスはどれかと尋ねた。彼が指さす方向へ歩いて行くと、ホテルから市街への道中に何度も見かけた赤いオンボロバスのターミナルに着いた。ここは新宿駅西口のバスターミナルよりも大きく、どのバスがどこへ行くのか皆目見当もつかない。そこで、ここでも何人もの人に空港行きのバス乗り場を尋ねて回ることになった。やっとターミナルの片隅に「187 KATUNAYAKE AIRPORT」の表示を見つけた。行き先を示す表示はあるものの時刻表のようなものにはどこにもない。行き先と料金だけが表記されていた。料金は4.50ルピー。私の前には若奥さん風の女性が二人、無表情にバスを待っていた。

10分ほどでバスは来た。料金は先払い。ここが始発ではないらしく、既に座席が8割ほど埋まっていた。木の床は隙間だらけ、座席も板張りであった。まだ、フライトまでには時間があるのだが、すっかり疲れてしまったので、このまま空港へ向かう。朝に見た風景を夕方にこうして眺めながら、バスの車体が軋む音とエンジンのうなりを聞き、窓から飛び込んでくる風を感じ、ぼんやりと未だ見ぬインドの街を想った。空港に着くまでにバスはほぼ満席となったが、バスは空港が最終目的地ではないらしい。空港に着いても誰も降りようとする気配はなく、私がバスを降りた唯一の乗客だった。空港ターミナルの入り口にも兵士が立っており、航空券の提示を求められた。尤も、私が一見して外国人であるためか、その若い兵士はにこやかで、緊張感のようなものは感じられなかった。

ターミナルビルのなかは閑散としており、3階分吹き抜けの天井まで届く超長の箒のようなもので天井を掃除している人が妙に印象的だった。フライトまで時間があったので、空港内のレストランで紅茶を飲む。スリランカで飲む紅茶なのでそれなりの感動のようなものを期待していた。私はいわゆる「通」ではないのでよくわからないが、一杯5ルピーもする割にはあまりに普通の味と香りに思われた。

コロンボからマドラスへのフライトはB737で約1時間であった。簡単な機内食も出されたが、それがヴェジタリアン用とノンヴェエジタリアン用の2種類から選択するようになっているところにインドを感じてしまった。機内は殆どインドかスリランカの人々のように見えたが、おもしろいのは彼らが一眼レフのカメラをケースに入れずにむき出しのまま機内に持ち込み、大事そうに膝の上に置いていることである。カメラはお守りなのか、見せびらかしなのか。日本人乗客は私を含めて3名であり、皆旅行者であった。機内での座席は3名ばらばらであったが、それほど大きな飛行機ではない上、6割程度しか座席が埋まっていなかったので自然とお互いを認識し、マドラスに着いた時には自然とその3人で今晩の宿を探すことになった。

空港内の銀行では何故かアメリカンエクスプレスのトラベラーズチェックは換金してもらえず、たまたま持っていた6ドルの現金だけインドルピーに両替した。行くあてはなかったが、取りあえずマドラス市街へ行かないことには話にならないので、空港ターミナルの前に停車していたリムジンバスに行き先も確かめずに乗り込んだ。料金は15ルピーだった。

結局、バスの終点はエグモア駅(Egmore Sta.)だった。あまり大きくなさそうな駅で駅前に商店街のようなものは見あたらなかった。ただ、駅前の道路に沿って果物の屋台が何台か並んでいるだけだった。ちょっと道をはずれた暗がりには白い大きな塊がいくつも転がっている。牛だった。なにはともあれ我々3人はなんとなく歩き出した。

夜でもかなり蒸し暑く、喉が渇いてきたところで "Lassi" という看板が目に入ってきた。3人のなかで一人、インドへは2回目という人がおり、彼によればこのラッシーとは飲むヨーグルトのことだという。おいしいらしいので、我々はひとまず喉を潤してひと休みすることにした。屋台に毛の生えたような粗末なその店ではまだあどけない少年が店番をしていた。ラッシーを3人前注文すると、一抱えほどの大きさの陶器の壺のなかにスコップのようなものでヨーグルトを放り込んだ。そこへ砕いた氷をやはりスコップ一すくいと大きなスプーン数杯の砂糖を入れ、木の棒で激しくかき回す。大きなコップへ壺の中身を流し込んで出来上がりである。一口飲むと、冷たく爽やかな甘さが口腔から胃袋にかけてさっと広がる。言葉では形容しがたいおいしさであった。ラッシーを飲みながら一服しているとリクシャーという自転車と人力車を足して二で割ったような乗り物が次から次ぎへと近づいてきて「宿は決まっているのか」などと声をかけてきた。私はこういう誘いに乗ると絶対にぼられると思い、あくまで自分の足で宿を探そうと決意を新たにした。しかし、インド2回目氏はリクシャーに乗って消えてしまった。残った二人は取りあえずYMCAを目指すことにした。リムジンバスを降りてから歩くこと1時間あまり、夜10時半を回ろうとするころ、ようやくYMCAにたどり着いた。ところが、その入り口は無情にも固く閉ざされていた。とたんにラッシーを飲みながらの決意もどこかへ吹き飛び、二人とも目はリクシャーを求めて通りの上をさまよっていた。リクシャーに乗って中央駅周辺の宿街を走った。リクシャーのオヤジも一生懸命に仲間に声をかけたりして探してくれ、11時半ごろにやっと HOTEL ITTA というこじんまりとした宿に落ちつくことができた。ツインで一泊50ルピーだった。

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