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月例落選 短歌編 2022年7月号

このところ落選ばかりだ。投稿したものを読み直してみたが、良い歌を詠もうという意志が感じられない。こういう姿勢は良くないのではないか。というわけで、己に喝をいれようと思った。見出しの写真は平将門の首塚。以前はオフィス街の一画に取り残されたような森の破片という感じだったが、周囲の再開発でずいぶんさっぱりしてしまった。今の職場がすぐ近くなので、時々お参りしている。写真に写っている塚前の小さな賽銭箱にはいつも結構入っている。時に札も入っている。困った時には借りちゃおうかなぁ、なんてことを考えてはいけない。だいたい賽銭箱を覗くという行為は許し難い。こんなことだから満足に歌を詠むことができないのである。今、こうして書きながら猛省している。

昨日、落選用の白黒フィルムの写真がなくなった、と言った舌の根が乾かないうちに白黒写真が登場した。誠に遺憾である。先ほど「今の職場がすぐ近く」と書いた。その職場近くを撮影したフィルム写真があるということは、カメラを持って出勤していることが示唆されている。ただ、ここでひとつ指摘したいことがある。手にしているのはカメラではなく、レンズ付きフィルムだ。カメラとフィルムは大違いだ。

カラーフィルムだとカメラ量販店などで数時間で現像してもらえるのだが、白黒フィルムだと最低数日、長いと2週間かかる。色がつくのとつかないのとで扱いがだいぶ違うらしい。今時は白黒の需要がないので限られた先に委託することになってこういうことになるのかもしれない。

似てる事例かどうかともかく、今思い出したのだが、蒸気機関車は何年に一度か分解点検・補修を実施する。その際、車輪の削り直しや交換のために車軸を抜き差しする装置はJR東日本の大宮工場にしかなく、ボイラーの補修は大阪のサッパボイラが一手に担当しているらしい。日本全国で稼働している蒸気機関車が何輛あって、それらがどのように分布しているのか知らないが、点検・補修を集中させたところで大した仕事量にはなるまい。だから、おそらく、その大宮工場にある機械装置が故障するか何かで使えなくなるとか、サッパボイラが蒸気機関車のボイラー修理を断るとか、機械装置に故障がなくとも扱うことのできる人がいなくなるとか、そんな事態になったら、蒸気機関車の稼働はできなくなるのだろう。

白黒フィルムの現像も、量販店に持ち込んで当たり前に受け付けてもらえるのは今のうちかもしれない。ちなみに、見出し写真はAGFAのLe Box Black Whiteというレンズ付きフィルムで撮影して、新宿のヨドバシカメラで現像・データ化してもらった。ネットで検索すれば他にもあるのかもしれないが、自分の身の回りで容易に手に入るレンズ付き白黒フィルムはこれの他にはILFORD HARMAN BLACK & WHITE XP2と同じくILFORDのHP5しか知らない。

ところで短歌だが、本日発売の角川『短歌』の「角川歌壇」への投句は4月15日必着。4月上旬に詠んだ歌である。

題詠の兼題は「麺」。

麺一把湯に咲く花の3分の起承転結胃袋の夢

麺啜りマルコポーロが語り出すウクライナ産小麦の涙

春が来て思い出になるカップ麺学舎の隅自販機の前

テレビや新聞がなくても、その時々の世間の話題は伝わってくるらしく、それっぽい歌もある。三首目は説明がないと何のことかわらない。高校生の頃、駿台の高校生クラスに通っていた。夕方、腹が減った時に自販機のカップ麺にだいぶ世話になった。勉強のことは覚えていないが、そのカップ麺がマルちゃんだったことは覚えていたりする。

雑詠は、文字通り雑な歌。

故郷の記憶を巡り殴り合う宇宙旅行の酔客同士

理想郷命を懸けて建国し命を懸けた総括の果て

赤旗を振り合い建てた理想郷ふりさけ見れば旗は血染めに

核の華ふりさけ見れば赤黒く青き地球は千々に砕けし

電車内での乗客同士のトラブルがある。高校はバスと電車を乗り継いで通っていた。勤めも同様だが、埼京線が開通してからは電車だけになった。何が原因で喧嘩になるのか知らないが、高校時代よく遭遇したのは赤羽線(現在の埼京線の赤羽=池袋間)での帝京高校対朝鮮学校。赤羽線は大学2年まで通学に利用していたが、大学3年以降は別の場所のキャンパスに通うようになったので、その後は少なくとも平日の利用は無くなった。後継の埼京線は一時期「痴漢電車」と呼ばれ、テレビ番組でも度々ネタにされていた。昔、ロンドンで暮らしていた時も、電車内での乗客トラブルに何度か遭遇したし、駅員への暴力行為防止を訴えたポスターが駅構内に貼られていた。何処も人間というものは同じなのだろう。もし、将来、人類が宇宙に仕事や行楽で出かけるようになったら、やっぱり宇宙船の中で乗客同士のトラブルは起こるだろう。そうなったら、どうなるのだろうと思った。

人民の人民のための、と理想論をぶち上げて作られた国がある。そういう国の中には、それまで「皇帝」と呼ばれる絶対君主が統治する国を革命で倒して建国された国もある。絶対権力という在り方に反対して作られた国が、結局呼び方は「大統領」とか「国家主席」とか「ナントカ党書記長」だったりしても、やっぱり絶対君主だったりする。なんだかんだ言っても、人の社会というものはそう変わるものではないのだろう。明治維新にしても、身なりが変わっただけで社会の内実が変わったとも思えないし、人間が作る社会というのは、細かいところの違いはあるにせよ、大枠は同じ気がする。

その社会のいわゆる「変革」には程度の差こそあれ流血を伴ってきた。その流血の道具類が時代と共に大規模化、強力化している。この調子でいくと、敵を倒すつもりが、自分も一緒に、、、なんてことになるのだろう。それを遠くで眺めていた別の天体の人が「昔、あのあたりに青くて綺麗な星があったんだけどね、、、」なんて語ったりするのかもしれない。

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