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墓石初売

墓石のチラシ眺めて寝正月
(はかいしの ちらしながめて ねしょうがつ)

正月に妻の実家に帰省した時、元旦に新聞の折込広告を眺めていたら、墓石・仏壇のA2版の広告が2枚あった。自分では新聞の購読を止めて久しいので、首都圏でどのような広告が今年の元旦の新聞と共に配布されたのか知らないが、これまでにこの手の広告を見た記憶が無い。何年か前に大阪に遊びに出かけた折、生國魂神社から四天王寺まで歩いた時に、生國魂神社の裏手に並ぶ寺院の一つが墓地の分譲をしていて「とくとくパック」という幟が立っているのを見て大阪という土地の何事かを感じたことがあった。しかし、今から思えば、大阪がどうこうということではなく、少子高齢化という社会の潮流の中にあっては、死にまつわる商売のマインドも自ずと変化するということなのだろう。

それにしても、墓を維持するのは誰だろうか。少子化で子供のいない世帯が増えていくと、「家」を継承するという制度が成り立たなくなる。「家」の存在・存続を前提にした仕組みも崩壊する。寺院の収支構造は変化せざるを得ない。数百年の長きに亘り続いてきた檀家の存在を前提にした寺院経営は成立しなくなる。また、少子化は国家財政の構造変化も促す。当然に宗教法人を巡る税制は変化する。おそらく、日本における宗教は劇的な変容を迫られる。産業の分野で資本効率の向上を旨とした資本集中が進行しているが、宗教界でも宗派を超えた統廃合が進行するということでもある。

宗教が変わるということは、人の心の拠り所が変わるということでもある。「あの世」が、おそらく、大きく変化する。人の欲望に対する無言の圧力のようなものが変化する。社会の秩序が今のままであるはずがないだろう。犯罪統計を調べたわけではないのだが、近頃「死刑になりたい」とか「死にたい」という理由で見ず知らずの人を襲う事件が続いているように感じる。自分が死にたいから他人を殺すというロジックに、「世間」を生きる上で当然にあるものとされてきた人としての「責任」という概念が希薄化している思いがする。死を巡る考え方と生を巡る秩序は表裏一体のものだ。いわゆる「少子化対策」にはそういう人の根本のところが考慮されている気配が無い。なぜだろうか。

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