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大野晋 『日本語の教室』 岩波新書

本書は『日本語練習帳』の読者から寄せられた質問に答えるという趣旨でまとめられたものだそうだ。たくさんの質問があったであろうが、本書の建て付けとしては、16の質問とそれらに対する回答という形となっている。いわば『日本語練習帳』の補遺のようなものでもある。

『日本語練習帳』を読んだ後に本書を読んだので、ここに挙げられている質問自体に意外なものはないのだが、質問10から質問16にかけては「日本語と日本の文明、その過去と将来」としてまとめられており、大野の問題意識の核のようなものに触れた思いがして、「やっぱりそうだよな」と納得するのである。

最も印象的なのは最後の質問「言語と文明とは別のものではなく、対応するものだということは分かりましたが、これからの日本はどうすべきなのか。具体的な仕方を示して頂きたいと思います」に対する回答だ。210頁から227頁までがその回答で以下の文章で締め括られている。

 人間は母語によって思考する。母語の習得の精密化、深化をはかることなくして、何で文明に立ち向かうことができよう。日本語能力の低下と日本の文明力の崩壊とが並行して着々と進行している実例は、すでに数々挙げました。アメリカ在住の日本人の話によると、日本語がよく出来ない日本人は、アメリカに滞在しても英語が出来るようにならないそうです。母語によって客観的世界を出来る限り精しく理解し、母語によって的確明晰に表現できる力を養わないで、外国語をうまく使おうとしても、可能であるはずはない。母語がよく使いこなせなければ、漱石のいう「上皮」だけしか見ない、「上皮」のことしか言えない日本人に成り果てるほかはないでしょう。
 そうした道へいつの間にか少年たち、少女たち、いずれは日本人全体を連れて行く考え方と仕組みを、私はそのままにすることに賛成できない。

本書227頁

今、「少子高齢化」とか「人口減少」ということが巷で話題になっているが、どういうわけか議論の行き着く先はカネをばら撒いて対策をしたつもりになる、ということしかない。一朝一夕にどうこうなることではないし、かといって何か形になることをしないと政治や行政として無策無能の烙印を押されてしまうとでも思われているのだろう。人々が世帯を持たない、持っても子供を作らないのは、本当にカネがないからなのだろうか。そういうところの議論は聞いたことがない。つまり、本当の原因とか問題点を誰も真面目に探ろうとしている様子がない。まぁ、それでどうこうなる性質のことでもないのだろうが。ようするに、カネがあるとかないとかではなくて、国民総体としと母語が衰弱してしまったのだろう。

上記の引用部分も印象的だが、改めて言葉というものがどれほどその話者の思考を左右するか、言葉次第で思考が浅薄になったり深遠になったりするものなのか、ということを考えさせられた。物事を認識するに際し、日常のことは比較的プリミティブな言語でもよいとして、概念・思想といった抽象的なことや、新たな物事を理解し受容するとなるとそれ相応の高度な言語が必要になるのは当然だ。日本語に関して言えば、ヤマト言葉が基盤にあって、それを漢字で表記し漢語で補足して独自の言語体系を培ってきた。その漢語があればこそ、さらなる別種の言語(例えば西洋の言語)に遭遇した場合に、漢語を媒介にして新たな思想や物事を受容することができたというのである。

以前に読んだ高校の漢文の参考書には、日本という国が時代を重ね文化を展開させるに際し、その時々の漢語を大陸から持ち込んで新たな概念や思想を日本語の中に取り込んでいったが故に、漢語でありながら中国語とは異質の漢文なるものを作り上げたとあった。その漢文の多層性というか混沌というか、異なる時代の漢語が同居している様は日本語や日本の文化の成り立ちを端的に表しているという。

結局のところ、現在の漢文訓読は、奈良朝から江戸末期に至るまでの日本語が、雑然と同居しているわけだ。雑然としているからと言って、どれかの時点に統一しようとしても、もはやそれは不可能となっている。むしろ、訓読の中に見える日本語のさまざまな姿を見て、遺物を発掘する考古学者のような興味を味わうことができたら、それも楽しいことの一つに数えられるであろう。

前野直彬 『精講 漢文』 ちくま学芸文庫 93頁

また、戦国時代に日本語の格変化のような文法上の複雑性の簡便化が進んだというのも興味深い。言葉、殊に文字で表記されたものは書き手と読み手との間で明確に意思や意図の疎通が成り立ち、更にそれが善意の第三者によっても理解され、時代が下っても意味を成さなければならない。そのためには当該言語の正当性が保証されていなければならない。その保証の当事者は当該文書が交わされた時の統治権力である。ということは、言葉が乱れるのは権力に乱れが生じているということでもある。日本は一応「民主国家」ということになっている。権力は国民にあるはずだ。今、自分の身の回りを眺めてみると、このことは腑に落ちる。

戦国時代という乱世になり、伝統文化の権威が薄れたことと相俟って、連体形と終止形を区別するという標準が崩壊し、何もないのに文を連体形で終止することが一般的になってしまえば、ゾ・ナム・カ・ヤを文中に投入して文末の形を連体形に変え、強調することの価値、効果は無くなってしまう。それはつまり、連体形終止の係り結びが消滅したということです。

本書105頁

先日、職場での勉強会のネタ探しで、言語の話者人口をざっくりと調べた。日本の外務省のウエッブサイトにある「国・地域」というところの「国」の人口と言語をコツコツと集計した。日本が「国」と認識しているのは現在195カ国で、それに日本自身を加えた196カ国が集計対象だ。それぞれの国の主要言語の筆頭をその国のその言語の話者人口とした。これには問題があるのは承知している。例えば米国の人口は約3億3,500万人だが、全員が英語を話すわけではない。しかし、集計上は全員が英語話者とした。

世界の言語の数は6,000から8,000と言われている。これに対し人口は約80億人。古典的な推計によると今から約1万年前、新石器時代直前の人口は約1千万人で言語の数は3,000から5,000という。人口はだいぶ増えたが言語の数はあまり変わっていないことになる。言語の数は趨勢として減少しているらしい。この話は以前にこのnoteに書いた。

それで小生の杜撰な集計だが、話者人口が1億人を超えている言語は16ある。これら16言語の話者人口の合計は67億人で世界人口の86%を占める。話者人口の筆頭はヒンディ語と中国語で14億人、この2言語だけで30億近くになる。3番目に多いのが英語で約9億人。4番目がスペイン語で約4億7千万人。これら上位4言語の話者人口合計が42億人で世界人口の過半数となる。

歴史を振り返れば、大航海時代にスペインやポルトガルが新たな土地を「発見」したとき、そこで「発見」された人々はそれぞれの言語を使っていたはずだ。その後、世界の覇権がイギリスやフランスに移り、産業革命もおこり、世界ではさらに多くの言語が「発見」されるが、様々な事情からローカル言語は淘汰されて覇権言語に置き換えられていく。結果として広域言語と呼ばれる言語が普及し、そうした特定少数の言語が世界を席巻するようになる。日本でもどういうわけだか知らないが、外国語を話すことが「知性」の象徴であるかのように認識されている節がある。それで冒頭の引用にあるような現象が現れる。

社会や時代の健康というか秩序のあり方、そこでの人々やその暮らしの健やかさ、といった諸々は端的にそこでの言葉の様相に表れているということなのだろう。生活の現実の真っ只中にいると認識することは困難なのだが、食うに困らないから健康・健全という単純な話ではない気がする。日本語を母語として生きている身として、今のところは特段どうこうということはないのだが、遠くから暗雲が近づいているようには見える。大野は国語学者という立場上、危機感を表明しているが、私は、まぁ、楽しい時代を生きることができてありがたいことだなぁ、と思うのである。

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