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映画 『すばらしき世界』

映画は滅多に見ないので、とりあえず「読んだ」マガジンにこの記事を収めておく。今月は勤務先の引っ越しで、週末毎部署毎に新しいビルへ移動しているのだが、昨日が自分の勤務部署の番だった。パソコン類の接続確認で午前中に新しい職場に出かけたついでに、最近対談記事を読んで気になっていた映画を観てきた。

西川美和の監督作品を観るのは、『ゆれる』、『ディア・ドクター』に続いて3作目だ。前2作はずいぶん前のことなので記憶も曖昧なのだが、「いいもの観たなぁ」という印象は残っている。妙なもので、ちょっとしたシーンを今でも鮮明に覚えていたりする。例えば、『ゆれる』であれば、アイロンがけをしている香川照之が振り返るところとか、ラストの彼のアップ。『ディア・ドクター』であれば台所仕事をしながらラジカセで落語を聴いている八千草薫が「ふふっ」で笑うところとか、鶴瓶が井川遥に自分の胃の内視鏡写真を八千草のだと偽って説明しているところ。今日観たこの作品のどのシーンが後の自分の記憶に定着しているのかわからない。ただ、今この瞬間は後半に句読点のように登場する空の映像が印象に残っている。

この作品で空が意味を持つのは、主人公の三上が出所後に生活が思うようにいかず、ヤクザ時代の兄弟分で今は組長になっている知り合いのところへ出かけたところに端を発する。そこでしばらく過ごした後、その兄弟分の家に警察の手入れが入った。彼は助太刀に入ろうとするのだが、兄弟分の内儀に逃げるように諭される。ヤクザとカタギとでは空の広さが違う、と言われて逃げることにするのである。

言葉のほうは、『ゆれる』も『ドクター』でも記憶に残るものはないが、『すばらしき世界』は昨日のことなのでまだ記憶に引っかかっているものがある。それは「罪の意識」。冒頭、三上が旭川刑務所を刑期満了で出所する日のこと。出所直前の刑務官との面談のときに「罪の意識はあるか」と問われる。「もちろん反省してますよ」と答えるのだが、「反省」の中身が尋ねる側の意図とずれている。満了出所なので、そこで「ちょっと待て」とはならないが、刑務官のほうは三上の答えに意外感を覚えた様子はない。少し呆れている風だ。このずれが作品全体の底に在って、その上に三上と他の登場人物との関係が展開する。

人を殺すことを罪だと心底思うくらいなら人を殺したりはしない。振り返って後悔することはあっても行為の最中はそれが最善だと思うからその行為に及んでいるのである。本作のなかで、十分な愛情を注がれずに育ったり、虐待を受けたりすると、脳が損傷して感情の制御ができなくなる、というような台詞が出てくる。愛情の多寡などという証明のしようのないことと「脳の損傷」という生理的なことの因果関係をきちんと説明できるものだろうか。人の行為は全てその人の表現だ、と思う。暴力をふるい相手の血飛沫を浴びて己の全能感に陶酔する、なんていうのは案外ヒトとして普通のことなのかもしれない。ただ、ヒトは己の感情を隠すことができる。同情なんか微塵も感じていないのに綺麗事をうだうだ並べるなど朝飯前なんてのはよくいる。腑が煮え繰り返るほど憤怒を覚えながらニコニコと人の良さそうな笑顔を振りまく人もいるだろう。

三上はそういうことができない人だ。それが彼の個性でもあった。結果として人生の半分以上を刑務所の中で過ごすことになった。しかし、出所後の彼を支えた人々は、「社会復帰」こそが人としての真っ当な姿だと信じて疑わない。それは彼等の真心だ。だから三上はその真心に応えようと努めた。やがて「社会復帰」を果たし、感情を抑えて暴力を封印することができるようになった。

三上には持病がある。それがどのような病気なのかは本作の中では語られていない。はっきりしているのは高血圧だ。血圧降下剤を常用している。感情が昂ると血圧が急上昇して倒れてしまう。彼が感情を昂らせて暴力に及ぶ時は倒れたりはしない。それどころか生き生きとしている。出所して、前科と病気があるのでなかなか就職できず、生活保護を受け、兄弟分の元へ走り、それではいけないと思い直し、ようやく就職する。それは彼自身の努力の成果でもあり、周囲の尽力の賜物でもある。それは彼もさすがによくわかっている。だからカチンと来ることがあっても只管我慢する。たぶんそれは彼にとっては自分を抑えるのではなく殺すことだった。

自分を抑えて、社会の中に居場所を作り、周囲の人々の善意に支えられて、今までに経験したことのない普通の生活を送る。今の彼を取り巻く人々も、かつての仲間も、誰一人として彼に悪意を抱いていない。皆、彼のことが好きで、彼のことを心配している。「すばらしき世界」だ。その世界で漸く彼はかつての己の所業に「罪の意識」を感じたかもしれない。彼の死は彼の贖罪と見ることもできる。しかし、親に捨てられたとか、愛に飢えていたとか、たぶん後付けの話だ。共同幻想を共有できない者に生きる場所がないというのが我々が生きている場の現実なのだ、と思う。

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