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たまに短歌 那智の滝

紀州2日目は那智の滝にお参りする。予て宿の人に教えてもらった通り、紀伊勝浦駅前から系統番号31の那智山行きバスに乗る。路線バスなので、整理券を取って乗車し、降りるときに料金を支払うという当たり前の乗り方でも良いのだが、駅前にあるバスの営業所で往復割引切符を買って乗る手もある。バスは紀伊勝浦が始発だが、すぐに満員になった。一見したところ、客の殆どが外国人観光客だ。途中の停留所で下車した地元の人と思しき婦人が手にしていた日傘が素敵だった。生成りのような布に白っぽい糸で刺繍が施された昔風の小さな傘だ。

熊野といえば熊野古道なのだが、古道を歩く体力も気力も持ち合わせがない。しかし、古道を歩かずして熊野に来た甲斐がない、とも思った。そこで、那智大社の参道の一部でもある数百メートルの「古道」があり、そこを歩くことでそのつもりになってみる。バスを「大門坂」で下車する。そこまで乗車していた客の半分弱がここで降りた。案内所が目に入ったので、とりあえず道程の確認をする。車道を少し登ったところに古道への分岐があるらしい。案内所の人と話をしたり、ツレの用足しを待っている間に、バスを降りた人々は散ってしまった。

古道への分岐には比較的新しい世界遺産指定の碑やらその他複数の道標の類が並んでいる。ほぼ民家である大門坂茶屋をはじめ数軒の家が道を挟んで建っている。その並びを抜けたところに鳥居があり、小さな橋が架かっている。この橋が聖域と俗界との境界ということらしい。

古道前暮らしの中に交錯す
古人いにしえびとの息と足音

古道がどれくらい「古道」なのか知らないが、「古道」というくらいなので、その並木もかなり古い。たぶん道の石畳や石段は時間が経ってもそのままそこに在ろうとするだろうが、並木の方はナマの木なので時々刻々成長する。今は巨木が並んでいるが、最初から巨木を植えたわけではないだろう。そして今も誰かが並木や古道の整備をしているはずだ。人の手が入らなければ、並木はやがて道に侵出して道を無きものにしてしまうだろう。たぶん、少しでも気を抜けば、たちまちにして人の道など無くなってしまう。古道だけのことではないだろう。

山道の巨木となりし杉並木
やがては消える人の往く道

大門坂を登ると並木が途絶えて開けた場所に出る。そこがかつて大門があったところだそうだ。大門跡の先は鉄筋コンクリートの構造物が立ちはだかっている。この構造物の上が舞台のようになっていて、駐車場や路線バスの折り返しが配されている。ここから車道を少し下ったところに「表参道」という表示のある階段があり、それを左手に過ごしてさらに車道を下ると滝が見えてくる。この辺り一帯は熊野那智大社那智山青岸渡寺の聖域だが、滝の前は特に飛瀧神社として滝を祀っている。

那智の滝そこに見るのは神仏かみほとけ
古人いにしえびとの思いや如何に

飛瀧神社の鳥居をくぐり幅広の階段を降りて滝を目の前にすると、滝に圧倒されてただ見惚れてしまう。境内を移動する毎に滝の表情が違うようにも見えて思わずシャッターを切ってしまう。滝を神に見立てる心情はなんとなくわかる。

那智参りカメラの画像滝ばかり
その一事こそ心の真

那智大社の宝物殿で、入口すぐのところに展示されている参詣曼荼羅の絵解きを神社の人にして頂く。ここもそうだったが、大きな神社仏閣境内にある宝物殿の類は、境内が混み合っている場合でも、なぜか空いている。そしてなぜか、入口で入場券を売っている人に声をかけられることが多い。ここでも「お急ぎでなかったら、ご説明しましょうか」とお声かけを頂いた。それで曼荼羅の絵解きを聴くことができた。

古い神社仏閣は創建当初は途轍も無く広大な敷地を有している。ここも例外ではなく、曼荼羅に示されている大社・青岸渡寺の参道入口は海に面している。その入口のあたりに補陀洛山寺・熊野三所大神社がある。熊野三所大神社は浜の宮王子社跡に建立された神社で、境内脇に熊野古道の道標もある。隣接する補陀洛山寺は仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹らしい。開山当時は現在とは比較にならないほど大規模な寺院だったそうだが、実在が確認されていない「天皇」の治世なので、要するに開山当時の詳しいことは不明ということだろう。

それでも、補陀洛渡海は有名で、記録にあるだけで平安時代から江戸時代にかけて二十数名が寺の前に広がる浜から観音浄土とされる補陀洛山を目指して小船で旅立った。その船を再現したとされるものが境内のガレージのような建物の中に展示されている。宗教儀礼ではあるものの、還暦過ぎの高僧の生前葬のような意味合いも感じられる。補陀洛山寺では有料で参詣曼荼羅の絵解きを行なっており、解説を拝聴した。

解説後の質疑応答の中で、渡海したはずの人が何かの加減で戻ってきてしまうことはなかったのか、と質問した。渡海は最期の儀式でもあるので、その後の記録は一切ないのだそうだ。但し、漂着した側の土地に記録が残っていることがある。琉球に漂着した日秀上人は、現地で30年近くに亘り熊野信仰及び真言宗の布教活動を行ったという。

渡海船は和船の上に入母屋造りの箱が置かれた小さなもので、その箱には窓がなく、渡海する人がその中に入ると入口を板で塞いで釘を打って固定するのだそうだ。「渡海」とは言いながら、現実にどこかに上陸することを想定しているのではなく、「船室」も約30日分の食料を積むようにはなっているとはいえ、実態としては棺であった。船室の板の隙間から外の光が漏れていたかもしれないが、暗かったには違いなく、その中で波に揺られて最期を待つというもの仏道の修行のうちと認識されていたのかもしれない。しかし、五体満足で陸上で暮らす者が無条件で幸福と言えるだろうか。全てを悟って波間に漂う暗い木箱の中に居るのと、煩悩に苛まれて明るい光の中に居るのと、安易に比較できるだろうか。見えているはずのものが見えていない、大揺れに揺れているのに盤石だと思い込んでいる、というのも悲惨である気がする。

補陀洛の沖の波間に消え往くは
舟の人やらおかの人やら

写真ではわからないが、実物を目の前にするとただただ見惚れてしまう
撮影日:2023年10月2日

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