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中西進 『新装版 万葉のことばと四季 万葉読本 III』 角川選書

先日、飛鳥山にある渋沢史料館を訪れた。閉館が16時と早く、あまりのんびりとは観ていられなかったが、見学者が自分を含めて数人しかいない展示空間は居心地が良かった。渋沢栄一は日本の近代化において、数々の事業を興し、今日に続く日本経済の礎の一端を築いた。そうした功績が認められてこそ、最高額面紙幣である新壱万円札の肖像となるのだが、このことは、現在の同肖像が福澤諭吉であるという事実と相俟って、明治という時代、あるいは「明治維新」と呼ばれる急速な社会経済体制の転換が、現在のこの国の権力中枢から是と評価されていることの証左と言える。

福澤諭吉の前の壱万円札の肖像は聖徳太子だ。聖徳太子の時代の日本も海外の先進地域からの文物の導入によって、この国の歴史の流れを決する働きをした人物だ。法隆寺が位置する斑鳩は、今でこそ長閑な地域だが、聖徳太子の時代には、権力中枢が位置する飛鳥とその外港に当たる河内とを結ぶ交通路の要衝だ。聖徳太子が建立したのは、法隆寺とその周辺の複数の寺院(中宮寺法起寺)の他には大阪の四天王寺がある。飛鳥と海外との交流路の飛鳥側の導入部分を自らの権勢で固めたかのような印象を受ける。聖徳太子が仏教に親しんだのは明らかだが、仏教が象徴する中国大陸由来の勢力がその後の日本の権力中枢を形成することが明確になるのは、その後の大化の改新以降だ。

万葉集が成立する時代は、この大化の改新によって日本の行方が決した後の時代と重なる。その時代を象徴するのが持統天皇であり、遣唐使であり、こうした時代を支えた民衆(無名者たち)であった。

山川に鴛鴦おし二つゐてたぐひよく偶へるいもたれにけむ

本ごとに花は咲けども何とかもうつくし妹がまた咲き出来ぬ

歌ったのは野中川原史満のなかのかわらのふびとまろという渡来人である。このことからわかるように中大兄の周辺には開明的な渡来人が多数いて、その知識によって政治もまた文学も促進せしめられていたことが知られるし、のみならず右の第一首は中国最古の書物『詩経』の巻頭の有名な詩を日本語に翻訳したものである。つまり渡来人による渡来文物の応用から文学が芽生えていったのであって、この海外性が大化の改新という古代日本の新生とそれにともなう文学の誕生を可能にした源泉であった。いささか唐突にすぎるけれども、それは明治政府のあり方、近代文学の誕生の仕方と、きわめてよく似ている。

115頁

本書は万葉集を巡る中西の論考集のようなエッセイのような『万葉読本』(角川選書)シリーズの3巻目だが、本文の本流もさることながら、こういう「唐突」が面白い。なんだか目から鱗が落ちる思いがする。万葉集という和歌集が大々的に編纂された背景に大陸文化に基づく国づくりがあるのは当然のことだ。何事かを明確にするには、その対極のものを同時に明瞭にして、相対化を図らなければならないからだ。しかし、それは振り返ってみたときに、そのように概観できるのである。そして、あれは行き過ぎだったとか、過激だった、というような批評ができるのである。何事もバランスが肝要だ。そんなことは誰もがわかっている。そのうまい塩梅が変化の只中にあっては見えないから我々は悪戦苦闘の歴史をここまで重ねてきたのである。極端のどん詰まりが把握できてこそ、間の中庸が認識できる。誰しも目の前のことで精一杯だ。極端の行き着くところなどわかるはずがない。従って、中庸も概念でしかない。

本書では「飛鳥万葉の時代背景」として、大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱が語られている。人物相関がややこしいので、スケッチブックを開いて本書の記述に従って、「こいつがこいつの倅で、、、」と相関図を書き始めたら「あれ?、、、あぁ、これは正妻の子で、こっちは別の人との子なわけね」などとややこしさが飛躍して、図ではなくて単なる落書きのようになってしまい、却ってわからなくなった。つまり、権力闘争というものは、ナントカ派対カントカ派などという安手の映画やゲームのようなものではないということだ。

そもそも改新そのものが大極殿における蘇我入鹿の誅殺を最大の眼目とするものであり、事実、彼は二人の刺客および中大兄によって惨殺され、絶命の命をひきずるように皇極女帝の許ににじりよりながら、女帝に見放されるままに息たえたという。

113-114頁

「絶命の命をひきずるように皇極女帝の許ににじりよりながら」とは、まるで見てきたような物言いだ。それはともかく、宮内庁の天皇系図によれば、皇極天皇は35代目の天皇ということになっており在位は642-645年。中大兄が天智天皇に即位するのが668年だ。間に孝徳天皇(位:645-654)、斉明天皇(位:655-661)の治世がある。が、斉明天皇と天智天皇との間に空白(662-667)がある。これもまた妄想を掻き立てる。大化の改新は蘇我入鹿の誅殺だけにとどまらない。

大化元年6月 入鹿の父、蝦夷自害。
同   9月 第一の皇位継承権者、古人大兄皇子、吉野にて殺害される。
同 5年3月 右大臣蘇我石川麻呂、讒言されて自害。中大兄の妃、造媛みやつこひめ、父石川麻呂の死を悲しんで死去。
白雉5年10月 孝徳天皇、中大兄らの仕打ちを憤って悶死。
斉明4年5月 造媛の不具の遺児建王たけるのみこ、8歳で死去。
同   11月 孝徳天皇の遺児有間皇子ありまのみこ、謀反の疑いによって処刑される。
 中大兄が大化の改新の立役者でありながら天皇として即位できたのは天智7年(668)であって、改新から23年がたっている。この間を、まだまだ不安定な時期と考えることができる。(略)
 そもそも人間をテーマとする文学が、この事件に無関心であるはずはあるまい。いや、無関心ではいられないほどに、右に述べた抒情の誕生は文学を進展させていったことになろう。

114頁

天智天皇は大化の改新の主役でありながら、天皇即位まで23年を経て、即位から4年で崩御してしまう。持統天皇はその天智天皇の娘であり、夫は天智天皇の弟の天武天皇だ。しかも、天智天皇崩御後に壬申の乱が起こる。天智天皇の皇太子は当初は大海人皇子おおあまのみこ(=天武天皇)であったが、晩年になって大友皇子おおとものみこ(=弘文天皇)へ後継を変えてしまう。それで一旦は吉野に入山した大海人は挙兵を決意。近江朝廷(大友=弘文天皇)を攻めて勝利する。弘文天皇は自害し、天武天皇が即位する。この辺りで図解が必要になるのだが、図解を試み始めたところで、それが意味のないことと悟ってしまった。

まず、天智天皇と大海人は兄弟だ。大友は十市皇女とおちのひめみこの夫だが、十市は大海人と額田王との間の娘だ。大海人は娘婿を殺したことになる。十市は自害したと言われる。また、十市の死は大海人陣営の総大将であった高市皇子との恋愛が絡んでいたとの説もある。高市の妻は御名部皇女みなべのひめみこで、彼女は天智の娘だ。高市と共に活躍したのが大津皇子で、大津はのちに山辺皇女を妃とするが、山辺も天智の娘だ。しかし、山辺の母は常陸娘ひたちいらつめで、常陸娘は蘇我赤兄あかえの娘である。蘇我赤兄は近江朝(大友陣営)の右大臣という重臣で、乱の後に配流となる。しかし、蘇我赤兄は有間皇子をハメて謀反の疑いをかけられるように仕向けるのに一役買っている。云々カンヌン。

教科書的に壬申の乱を表現すれば、天智天皇後の大海人と大友との政権争奪戦という、なんとなく俗な感じに収まるのだが、おそらくそんな生やさしいものではなかっただろう。要するに、身内であるとかないとか、敵であるとか味方であるとか、そういう単一の尺度やわかりやすいグループ分けで合理的に人間の利害や行動動機が規定されるはずもなく、当人にすらよくわからないことで人は命懸けになったりするものなのだろう。本当は、教育というのはそういう人間社会を理解するためのものなのだろうが、何故か「正解」のあることしか取り扱うことをしない。だから「歴史」ではこういうことはわからない。

持統天皇はこの混沌の只中を生き抜いた天皇だ。

春過ぎて夏来るらし白栲の衣乾したり天の香具山

という有名な歌があるが、持統天皇が経験したであろう諸々を想うと字面通りには解釈できない。しかし、持統天皇のことを書き出すと収拾がつかなくなる気がするので、今はやめておく。

聖徳太子の時代の後、大化の改新とそれに続く政局の大混乱を経て、聖徳太子が礎を築いた大陸文化主導の国づくりが進展する。紙幣の肖像が何を物語るのか知らないが、聖徳太子の次が福澤・渋沢に象徴される明治維新後の国づくりを物語るとするならば、我々は聖徳太子後の大化の改新や壬申の乱に匹敵するような混乱から未だ抜けきれない真只中にあると認識されているのかもしれない。

聖徳太子の頃のクニの統一というのは、中央集権国家の樹立であり、国家の下では国民個人の個別性が徹底的に捨象されるということを意味した。「日本」の成立の時はそれがこの国の中のこととして行われた。今は、「グローバル」という従来の「国」を超えた段階で、さらに強力に人間としての個人や個別性の抹殺が行われている、と私は思っている。だから、お上にそういう意図があるのかないのか知らないが、紙幣の肖像はそういうことを語っているように見えてしまう。

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