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月刊みんぱく 2021年4月号 特集:コロナが変えた日々を追う

世間では昨年来の感染症騒動で「生活が一変した」と言われているが、自分の生活は全くと言っていいほど変わっていない。騒動前後で変わったことと言えば、マスクをつけるようになったことくらいだろうか。

日々の暮らしだが、勤務が朝7時から午後3時までのシフトなので、毎朝4時半に起床する。身支度をしたり朝食をいただいたりして、5時40分過ぎに家を出る。住まいの最寄駅までは徒歩。5時50分頃の電車に乗り、途中2回乗り換えて、6時40分頃に職場の最寄駅に着く。駅から職場のあるビルまでは地下道でつながっているのだが、7時前はビルの入り口が閉鎖されているので、一旦地上に出て、ビルの通用口から入る。勤務は定時に上がることは少ないが、それでも世間の一般的な帰宅時間よりは少し前に家路につく。毎日、妻が拵えた弁当を持参するので、一旦職場に入ると退勤まで職場に篭りきりだ。勤め先ではリモート勤務が推奨されているが、厄介事が起こった時にリモートではどうすることもできないので平日は毎日出社している。

土曜日は陶芸の日。道楽で始めてもう15年になる。だいたい朝7時頃に起床し、朝食をいただいて、ゆっくり過ごして、9時40分頃に家を出る。10時半頃に教室に入って、午後1時過ぎまで作業をする。作業内容によっては午後2時からの部に続けて作業をすることもある。一回目の非常事態宣言の時は教室が休みになったが、そもそも密ではないので、昨年6月以降は通常通りの運営になっている。通い始めてからの15年の間には密に近い状況の時代もあったのだが、新しい生徒があまり入って来ないので生徒は減る一方だ。おかげで今は広い教室と豊富な道具類を使い放題だ。感染症騒動を機に来なくなった人もいて、ここ1年ほどは出席した生徒が私ひとりという日もある。先生とも長い付き合いなので、互いに気を遣うこともなく、まるで自分の工房であるかのような感覚で通っている。居心地が良くて今更やめられない。陶芸の日の昼食は弁当ではなく、教室近くのカフェでサンドイッチとコーヒーのセットをいただく。教室は池袋にあるので食事の店は他にいくらでも選択肢があるのだが、加齢で食が細くなったのと、一昨年あたりから急にサンドイッチが食べたくなったので、今はもっぱらそういうことにしている。

実家に老親が健在なので、様子を見に2週間に1回くらいの割合で、陶芸の帰りに実家に寄って晩御飯をいただく。晩御飯は母が作って待っている。まだ達者だが、いつまでもこのままというわけにもいくまい。

日曜日は安息日。出かけたいところがあれば出かけるが、団地の小さな部屋で終日過ごしても全く苦にならない。掃除が好きだ。掃除を終えた後の静まった空気がなんとも言えない。これまでエアコンなしで過ごしてきたが、今年は買った方がいいかなと思っている。きっかけは先日このnoteに書いた自分の記事だ。温暖化のことを書いていて、暑くなる一方だと確信した。しかし、買った途端に勤め先を辞めることになったり、その他諸々で今暮らしている団地を退去することになるかもしれないと思うと、引っ越した後で買えばいいかなと思ってしまうのである。

「月刊みんぱく」で紹介されているのは、インド、フィリピン、イギリス、アメリカ、モンゴルの様子。学生時代にインドを旅行したことは最近ここにも書いた。しかし、通り掛かりの旅行者には現地の生活はわからない。記事によると

インドの都市中間層にとって、生活を維持するために欠かせないのは、家事労働を担うお手伝いさんである。多くの家庭は、住み込みや通いのお手伝いさんを雇っている。(2-3頁、松尾瑞穂 民博超域フィールド科学研究部「いなくなったお手伝いさん」)

日本でもお手伝いさんのいる家庭は昭和まではけっこうあった印象がある。自分の交友関係の中にも、家に女中部屋がある奴とか、中には執事がいるというのもいた (初めのうち「しつじ」ではなく「ひつじ」=羊がいるのだと思っていた)。結局、相続を狙ってお上が金目のものを見つけ次第に巻き上げてしまう仕組みになっているので、時代が下って金持ちがいなくなり、家庭の中に他人が入るのは介護関係くらいになってしまった。相続にまつわる制度だけでなく、社会のしくみが個人を単位にしたものになり、家族とか地縁・血縁の小集団が解消されている。かつては終身雇用を前提にした職域という集団もあったが、労働の流動性が高まり、それも解消されつつある。そうした社会の個人化の流れの中で、今回の感染症騒動が発生している。世間では「生活習慣が変わる」と「変わる」ことが特別なことであるかのように語られている印象があるが、何があってもなくても物事は変化を続けるのである。その基調となる変化の中で、他者との接触を忌避させる事象が発生したことが、その基調を変えるだろうか。

去年の今頃、「コロナ倒産」と呼ばれる経営破綻事例が取り沙汰されるようになった。しかし、個別の案件を見れば、そもそも順調とは言えなった事例が多かったように思う。財務の健全性が感染症騒動以前から毀損されていたものとか、日銭に過度に依存したビジネスモデルとか、後継難で事業継続断念のタイミング待ちの状態であったものなどだ。

経済成長の過程で資本の集積が進行し、巨大化した資本の内部では合理性を追求する中で省力化が進行し、YouTuberだのギグワーカーだのと個人事業主が憧憬されるような風潮が強まっている。個人の生活がより自由で活動的になっているかのようにも見えるが、個人事業主が大病を患ったらその生活はどうなるのだろう?「一億総活躍」は結構だが、「自己責任」の名の下で個人化=孤立化ということになると、政治や行政は信頼されるだろうか。信頼のない政治や行政の下で秩序は維持できるだろうか。

今、様々な名目で感染症対策の補助金や給付金が支給され、様々な施策が実施されているが、財源は国債だ。発行した国債(借金)は償還(返済)しないといけない。償還原資は税収だ。騒動が落ち着いて、経済活動が回復し、税収が回復することを前提に、それを当てにして施策が打たれている。当然、税収回復の腹案はあるのだろうが、それが語られるのを聞いたことがない。後先考えもなしに払いだけが増えているのだとしたら、我々はどうなるのだろう。今年は都議選と衆議院選挙がある。感染症で選挙も変わるのだろうか。

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