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スズラン給食

26日土曜日に日本民藝館で仏教美術研究家で弘前大学名誉教授の須藤弘敏氏の講演「みちのく 近世の民間仏」を聴講した。講演中、東北地方、特に須藤先生が専門としている青森県とその周辺の暮らしを語る中で「スズラン給食」のことに言及された。そんなものがあったことすら知らず、少なからず衝撃を受けた。それで帰宅してから自分でも少し調べた。

東北地方の厳しい暮らしは、民藝館で展示されている民間仏が制作された遠い過去のことだけではなく、戦後も久しく続いていた。そのことを示す事例として話題に上ったのが「スズラン給食」だ。学校給食が全国で義務化されたのは1965年のことである。それまで、学校に通うのに弁当を持参する地域が少なからずあり、そういう地域の子供たちの中には持参する弁当を用意することができず、かといって学友が弁当を食べているのをただ眺めているわけにもいかず、昼休みが手持ち無沙汰で校庭で「遊んで」時間を潰していた子も少なくなかったのだという。今でこそ多少寒冷でも生育する稲は珍しくないが、そもそも稲は熱帯由来の植物で、殊に東日本ではその栽培に苦労した時代が長い。

岩手県盛岡市の藪川地区は標高900mの寒冷地で、稲の栽培には不向きで稗や粟といった雑穀を主食にしていた。東京オリンピックが開催された1964年は殊に雪解けが遅く、人々は凶作に備えて自ら食事を節制していたという。彼の地の子供たちのなかにも学校に持参する弁当の無い者が多かったのだそうだ。たまたまその話を聞いた盛岡ライオンズクラブのメンバーが薮川地区の子供たちへの支援を決めたが、調べてみると同じような状況にある地域は全国にたくさんあり、ライオンズクラブ全体として取り組むことになった。

ところが、薮川地区の人たちは、そうした支援を受けることを恥と感じ、ただ支援を受けるのではなく、薮川地区に自生するスズランを首都圏で開催されるライオンズクラブの例会に送ることにした。ライオンズクラブでは「都市とへき地を結ぶ愛の交換方式」として、スズランを販売し、その売上で給食費を賄うという形式にして、薮川の人々の了見に応えた。これがマスコミに取り上げられ、広く全国に知られるようになり、時の佐藤栄作首相は1964年度の予備費から給食特別対策費として5億円の支出を決定、翌年度からは予算化されることになった。遂に、1965年7月6日に薮川地区の小中学校では完全給食が開始された。

と、この話を聞いた時、水前寺清子の

ボロは着てても 心の錦
どんな花より きれいだぜ

「いっぽんどっこの唄」詞:星野哲郎

という歌を思い出した。「いっぽんどっこの唄」で、1966年11月1日発売、累計売上100万枚を記録した大ヒット曲だ。

自分自身の生活を思い起こしてみると、1964年は2歳だったので殆ど記憶に無いが、家業が破綻して親子3人が西川口駅から徒歩10分ほどのところにあった台所トイレ共同の四畳半一間のアパートで暮らしていた時期だ。そのアパートは私が成人した後もしばらくあったので、物心ついた後もその前を通りかかることがしばしばあり、微かではあるがそこで暮らした日々の断片は記憶に残っている。翌1965年に隣の市の少し郊外の田圃を潰して建てた六畳四畳半台所風呂付の棟割長屋に引っ越し、そこで小学校6年生まで過ごした。貧しくはあったが、棟割長屋に移ってからは食べるに事欠くというほどではなくなった。

私が通った小中学校は土曜以外は原則給食だった。小学校には給食室という大きな調理場があり、給食を学内で調理していた。3年生の時に市の給食センターが稼働を始め、市内の小中学校の給食はそこで調理されて、各校にトラックで配送されるようになった。私は偏食だったので、給食は苦手だったが、今から思えば偏食であるということ自体が罰当たりなことだった。

「スズラン給食」のようにタダで施しを受けることを潔しとしないという了見であるとか、「ボロは着てても心の錦 どんな花よりきれいだぜ」と啖呵を切って見せる心情というのは、いつかはそういう境遇から抜け出すことができるはず、という将来に対する暗黙の信頼とか強い思いがあればこそ抱くことができるのではないだろうか。あるいは、人間にとって本当に大事なのは、物理的な見てくれではないということかもしれない。そういえば、『星の王子さま』は「本当に大事なことは目に見えない」と言っている。

モラルであるとか生活倫理、あるいはもっと広く社会秩序が成り立つ大前提は、未来が確実に存在し、しかも現在の行いがその未来に繋がっているという強い信頼感だと思う。その信頼感を醸成するのは日々の暮らしでの身の回りの人々との繋がりだと思うのである。身近に存在する人すら信じられずして、あるかないか誰にもわからない未来を信じることなどできるはずがない。

「正しい」こととは自分とその周囲の人々にとって役に立つことや暮らしの足しになることであり、誠心誠意その「正しい」ことのために尽くた上に幸運があるという確信のようなものが共同体の中に醸成されてこそ、農業のような結果が年に一回しか出ないことさえも生業にすることができる。田や畑を興し、種を蒔き、手入れを怠らず、収穫を得る。時に天変地異に襲われることがあっても、それを他人事とはせずに己の行いの報いと捉えることで、反省や工夫につなげていく。反省や工夫といった自己の能力を超えるところは神仏の技だが、それにしても神仏が己の行いをきちんと見守っているという信頼があってのことだ。

ナントカ教というような形式の確立した宗教ではなしに、日々の暮らしを支える心情の軸や基盤となる自分の暮らしに直結した神仏であればこそ、暮らしに追われる多忙な毎日の中で手間をかけて神仏像を拵える気になったのだろう。そうやって彫られた民間仏は、エスタブリッシュメントではないので、仏像や神像が具備すべき形式や決まり事は守られていない。正式な神仏像とは違って、かなりはっきりと笑顔を見せている御像が多く、笑っていなくても優しい表情を見せている。おそらく、現実の暮らしが笑えないような厳しいものであったから、せめて仏様や神様には笑っていて欲しいという願いもあったのかもしれない。

1964年の東京オリンピックで来日した海外の人々を驚かせたのが、羽田から代々木の選手村に至る街並みの貧相さであったという。そのオリンピックへ向けての準備が本格化している1960年12月27日の閣議で、池田勇人内閣は1961年度から10年間で実質国民総生産を倍増させるとする「所得倍増計画」を決定した。それは倍増させることができるほど足元の所得が少なかったということでもある。

「所得倍増」の要諦はインフラ整備と工業化であった。急速な工業化は公害問題のような弊害をもたらし、池田の死後は手綱が緩んだ時期もあった。その後、1972年に田中角栄内閣は「日本列島改造」を掲げ、設備投資をはじめとする各種投資がそれまでにも増して活発に行われた。確かに実質国民総生産は倍以上になった。さらに、外国為替の変動相場制への移行や石油価格の急騰、貿易摩擦とそれに続く各種自由化といった国内外の大変動を乗り越えて日本経済も世界経済も成長を続けて今日に至る。

「スズラン給食」から60年近くが経った。経済統計上は確かに日本は豊かになった。今年は広島でG7が開催されたが、実態はどうあれ少なくとも名目上は国際社会を主導する側の一画を占めている。それでも今なお「貧困」ということがしばしば世間の話題になる。勝手な想像だが、「貧困」の中身はスズランの子供たちや自分が経験した貧困よりはずいぶんマシなのではないか。しかし、未来の展望という点では、ひょっとしたらあの頃とは真逆かもしれない。展望とか希望とか、統計では表現できないこと、目には見えないこと、をしっかりと考えないと、おそらく、近い将来、我々は取り返しのつかない過ちを犯すことになる。あるいは既に犯してしまったのかもしれない。

見出しの写真は長野県東筑摩郡筑北村坂井眞田にある安宮神社の裏に広がる修那羅石神仏群の一部。信州も久しく厳しい時代が続いた。日本は米本位制経済だったので、米作が困難な地域の経済はどこも厳しかった。この石仏群のある地域は江戸時代は上田藩に属し、その上田藩では記録に残るだけで6回の義民騒動が起こっている。義民については以前に書いた。今は、みちのくの民間仏の多くはそれほど大事にされていないようだし、義民の郷の石神仏像も地面と一体化して見えるほどに苔むしている。地域の過疎化で手入れをする人手がないということもあるが、人々がそうしたものに縋る必要がない状況に置かれているということでもあり、喜ぶべきことかもしれない。しかし、本当のところはわからない。

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