見出し画像

犬養孝 『改訂新版 万葉の旅』 全三巻 平凡社

万葉集の歌に詠まれている土地を訪ねてみよう、と思う人はたいていこの本を手にするらしい。私も以前に受講した「万葉集講座」の参考文献に挙げられていたものの一つとして手にした。ところが、講座期間中は紐解くことを怠り、今頃になって読んだ。もともとは1964年に社会思想社の現代教養文庫として発行されたが、同社の廃業によりしばらく絶版状態となっていたのを、平凡社が2003年に改訂新版として発行した。改訂に際して元の記述や写真を残しながら「国鉄」を「JR」に書き換えるというような中途半端な手の入れ方をしているのは、万葉集所縁の地を歩く人が本書をガイドブックとして使うことを想定してのことだろう。別に「国鉄」のままでよいのではないか、と思うのは私だけだろうか。写真はいかにも素人写真で、それが味わいを深めていてよい、というのは本音であって皮肉ではない。

万葉集の最初の歌は雄略天皇の御製、とされる歌。万葉集の時代には現在の「ナントカ天皇」という漢風諡号ではなかった。そのあたりのことは別の記事に書いた。

それで筆頭の雄略天皇御製とされる歌だが、実は伝承歌らしい。そんなことはともかく、雄略天皇は万葉集の中では「泊瀬朝倉宮に宇御めたまひし天皇(はつせのあさくらのみやにあめのしたをおさめたまいしすめらのみこと)」(岩波文庫での表記による)となっている。「泊瀬」は現在は「初瀬」と表記されている地域とピタリと重なるわけではないだろうが、だいたいそのあたりだろう。近鉄の駅に「大和朝倉」、「長谷寺」といういかにもそれらしいのがある。現在、この一帯は奈良県桜井市である。かつて、天皇が新たに即位する度に新たに都が造営された。人の命は限りがあるので、それに合わせて大きな都市を建設したら完成が天皇の在位に追いつくはずはないのだが、現在の「都市」のイメージではなく、単に集落のようなものと考えれば、都の造営も儀式の一部と見られたのだろう。

万葉集の成立は詳しくはわかっていないらしい。そもそも原本はなく写本だけが頼りだ。大伴家持が編纂を担当したとの説はかなり有力らしく、8世紀の終わりごろに一応の完成を見たとのこと。ところが、家持は亡くなった後に藤原種継暗殺事件への関与が疑われ、追罰を受け、官籍からも除名された。このため彼の仕事もなかったことにされて万葉集の発表が遅れ、9世紀初頭にようやく公になった、らしい。とはいえ「万葉集」の表記が文献に登場するのは平安中期以降で、つまり、詳細不明なのである。

万葉集に収められている歌は約4,500首(岩波文庫版に収載されているのは4,516首)、うち473首が家持の作とされている。しかも、万葉集のトリを飾るのが、因幡国守として山陰に暮らしていた家持が詠んだ歌だ。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事
(あたらしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと)

一見すると新春を寿ぐ歌のように見える。しかし、本当にそうだろうか。確かにこの歌の詞書には正月の宴会で詠んだ歌と書かれている。正月の宴会で詠むのだから、それなりものであろうと思うのは当然だ。しかし、だ。ま、この話はやめよう。

それにしても、当時の日本中から歌を集めた歌集が存在しているのは確かなようで、それがなんのためなのか、現代の者には実感としてわからない。おそらく、国家としての統一体、共同体の存在を公に確認する作業として、そこに属する人間があまねく理解できるようなものが必要であったのだろう。現代であれば、共同体の連帯を象徴するのに、できるだけ多くの構成員が参加をする行事を行うことに相当するのかもしれない。例えば、オリンピックや万国博覧会といった世界中の人々に対して「自国」を意識させるような行事がそうしたものに当たるだろう。奈良時代にあっては、それが歌であり言葉(表記ではなく音として)であったというところに言葉というものの存在の大きさが表れている。

「海ゆかば」は万葉集にある家持の歌が元になっている。「海ゆかば」が軍歌なのか鎮魂歌なのかという議論があるらしいが、1880年に宮内省伶人だった東儀季芳が作曲したものは将官礼式曲として用いられ、1937年に信時潔が作曲したものは、作曲者の意図はどうあれ、実態としては軍歌とされても仕方がないだろう。しかし、元の万葉集の歌は、造営中の東大寺大仏の塗金に不足していた時、陸奥で金鉱が発見されて陸奥国守から金900両が献納されたことへの祝いの歌だ。1937年作曲のほうの「海ゆかば」が、当時の政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲として作られたということは、万葉集と「総動員」に通じるものがあると考えられていた証左と言えるだろう。言葉の力は大きいのである。

ちなみに、その家持の歌は長歌と三首の反歌から成っている。

陸奥国に金を出だしし詔書を賀びし歌一首 短歌を併せたり

葦原の 瑞穂の国を 天降り 知らしめしける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日継と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝は 数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども 我が大君の 諸人を 誘ひたまひ 良き事を 始めたまひて 金かも 確けくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇祖の 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 朕が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴の男を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みは せじと言立て ますらをの 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもそ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言い継げる 言の官そ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我をおきて 人はあらじと いや立てて 思ひし増さる 大君の 命の幸の 聞けば貴み

反歌三首

ますらをの心思ほゆ大君の命の幸を聞けば貴み
大伴の遠つ神祖の奥つ城は著く標立て人の知るべく
天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲く

天平感宝元年5月十二日、越中国守の館に於て、大伴宿弥家持の作りしものなり。(岩波文庫版『万葉集(五)』62-68頁)

万葉の時代から下って、10世紀から15世紀にかけて勅撰和歌集の編纂が行われている。16世紀は戦乱の時代。17世紀以降は天下統一の時代。19世紀は門戸開放で世界との付き合いが本格化する時代。そして20世紀、21世紀がどのような時代か、我々一人一人がそれぞれに答えを持っているだろう。いずれにせよ、言葉は連帯の証というよりも分断の武器のようになってしまった、と感じているのは私だけだろうか。改めて、本書を手に万葉所縁の土地を巡ってみたい。


読んでいただくことが何よりのサポートです。よろしくお願いいたします。