1984
誰もが携帯端末を持ち、何かというと検索したり「インフルエンサー」とかいうものの発言を参照したり、というのが当たり前の世の中になった感がある。しかし、例えば今回の感染症騒動のような誰にとっても未知のことが起こると、誰も確かなことがわからずに右往左往して、徒に他人の批判や揚げ足取りに終始する情けない状況に陥る。いくら上等な機械を手にしたところで、使う側が馬鹿だとどうにもならないのである。
確かめる術なきことをよいことに妄想踊り「事実」ができる
見もせずに見てきたような嘘を言い信じ込んだら「真実」になる
そうは言っても、技術が進歩して記録とその保存が想像を超えるほど容易になった。我々の一挙手一投足が誰かが意図するとかしないとかに関わらず、どこかしらに記録として残る時代になっていることも事実だ。
確かめる術無きことと思いきや監視カメラが全てを記録
情報を使いこなしているつもり使い倒され奴隷の暮らし
ブレーキを踏んだ「つもり」は事実でも踏んだ形跡無いのも事実
別に見られて困るようなことはしていないつもりだが、やることなすことにいちいち何か言われるのも煩わしい。それを「透明性」と呼んであるべき姿とされるのも釈然としない。
改めて思うのだが、人は生まれることを選べない。気がつけば「私」として在る。そして、当然のように己の「権利」を主張する。しかし、自分の意志とは無関係に存在するものに果たして何の権利があるというのだろう?そもそも自分の意志とは関係なく存在している自分は何者なのだろう?自分が老いたがために世間が騒々しいと感じるだけのことなのかもしれないが、今の時代の騒々しさの根底に、根拠のない権利が喧伝されている状況が在るような気がしてならない。
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