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終戦記念日 2022

敗戦忌それより席に座りたい
はいせんき それよりせきに すわりたい

敗戦忌何も学ばぬ馬鹿共が
はいせんき なにもまなばぬ ばかどもが

敗戦忌英霊からも見限れら
はいせんき えいれいからも みかぎられ

毎日朝5時台に自宅最寄駅を発車する電車に乗って通勤している。世間一般の通勤時間帯より随分前なので感染症流行以前から空いている。それでも電車が入線するとキョロキョロしながら我先に席取りに向かう人が多い。そんなに座りたいのかと思う。

先日、帰省した折、義父が戦争中のことを語った。新潟といえば米所というイメージが今でもある。確かに魚沼のコシヒカリの新米などは下手な惣菜で米の味を汚したくないくらいに美味い。しかし、新潟県民が全員農家であるはずはない。家人の実家は少なくとも明治の段階では既に宮大工だったそうだ。つまり農家ではない。義母の実家は農家で、今でもかなり手広く営農している。おそらくその所為で、戦争中の記憶が義父と義母とで全く異なる。義父の方は戦争後半から戦後2年程度にかけて食べるものがなくて大変だったという。川でエビやウナギを取り、田圃でドジョウを取り、食べられる草は片っ端から取ったという。生憎、ウナギは油臭くて食べられなかったが、エビやドジョウは食糧の足しになったそうだ。義母の方は米や野菜に不自由はなかったが、街の人たちの手前、不自由しているように見せるのに大変だったという。

新潟県では長岡が唯一空襲に被災した(新潟市にも空襲はあったが、機雷の敷設を目的としたものだった)。昭和20年8月1日の夜のことである。義父はその晩のことをはっきりと憶えていて、柏崎でも長岡が空襲で燃える灯りで教科書の文字を読むことができたという。義母の方はそういうはっきりした記憶がないという。敗戦当時、小学校6年生だった義父は軍事教練で竹槍で藁束を突く練習をさせらたり、近くの山へ松の薪を運びに動員されたりしたそうだ。薪は荒縄で縛って背負うのだが、縄が肩に食い込んで難渋したらしい。松材は松脂を採取して航空燃料にするのだが、松脂の段階で僅かな量しか取れず、どれほど燃料の足しになったか怪しい。

「お国のため」に大勢の人々が命を落とし、他所の国に悪さをした。終戦後は冷戦体制という国際情勢が世界各国の復興競争のような状況を現出させたこともあり、多くの人々にとっては戦争は遠いものになっていることだろう。しかし、現実は終戦後80年近くを経てなお様々な問題が未解決のまま残されている。人は不都合な現実には目を瞑り、都合の良いものを都合良く選んで「現実」として認識するものだ。それにしても、我々はよほど無能なのかもしれない。この日にただどこかに集まって黙祷してみたり心にもない作文をしてみたりしたところで何事か建設的なことになるはずがない。私も何もしないわけにはいかないとは思うのだが、とりあえずこの日に何かを書き記しておくことくらいしかできない。よほど馬鹿なんだなと思う。

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