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️ 自己紹介🕊️

子供の頃に描いていた大人とは、だいぶ違う人生になっている。
人間なら誰しもその様に感じるものだろうか。
今回は、そんな私の自己紹介をしたいと思う。

【プロフィール】

* 名前: くまみ
* 年齢: 22歳
* 興味のあること: 自己理解、キャリア形成、病気や障害、美術、美容
* 挑戦してみたいこと: WEBデザイン、情報発信、投資、ひとり旅、自然に囲まれながら運動をする!

【好奇心旺盛な学生時代】

基本的に、興味を持ったことは挑戦スタイル。
好奇心が高い方だったので知恵を吸収するのは好きだった。特に、父の影響で始めた剣道は、私にとって一番長く続けたスポーツである。

二段まで取得


剣道を通じて身についたことは主に2つ。

ひとつ目は礼儀作法。
剣道の稽古は礼に始まり礼に終わるので、日常的に礼儀正しい行動が身についた。
これが後の社会生活でも役立ち、挨拶などが当たり前にできるようになり、周りから褒められることがあった。

二つ目は声が通るようになったこと。
剣道では重い防具をつけ、声を出しながら動く。
声が小さいと指導を受けることになるため、自然と声を大きく出す訓練になっていたようだ。

これが後のプレゼンテーションや発表で「声がハキハキしていて聞き取りやすい」と評価されるようになった。
これらの経験から、剣道を通じて得た忍耐力、礼儀作法、声の通し方のスキルは、私の生活や仕事に役立っている。

【専門学校での仲間たちの出会い】

昔から審美的なものに惹かれる傾向にあった私は、中でも美容の分野に興味を持ち、化粧品会社が運営している美容専門学校に進学した。
そこは世間が想像する様な、キラキラ美容学生!といった雰囲気は皆無。かな〜り厳しい学校で、最初は何をするにも慣れずポンコツっぷりを発揮した。

毎回怒られるのが怖く、怯えながら授業を受けていたものだ。しかし指導は決して理不尽ではなく、私のためを思って厳しくアドバイスしてくれたものだった。
社会常識が不足していた私にとって、この学校で社会勉強を教えてもらえたことは本当に良かった。
クラスメイトも、真面目に楽しく学びたいと思っている方が多かったので積極的に行事に参加したり、資格勉強に励んだり。

とてもメリハリのある学園生活を過ごせたと思っている。
専門学校の2年間は、学生生活の中で一番の宝物だ。

乗り越えた二年間


【コロナ禍の就活】

コロナ禍の就活は想像以上に大変だった。

特に目指していた化粧品業界は、化粧品の売り上げが大幅に揺らいだ影響により募集は激減した。
美容部員になるのにとんだ倍率であり、当時諦める人も多かった。

とは言え、企業が運営している美容専門学校に進学した私は「まあ、ここに入ったからには良い企業に行けるだろう」と内心思っていた。だがそんな期待は容赦なく打ち砕かれたものだ。

募集が限られてるため、選考中の企業がクラスメイトと被るのは当たり前。一斉に合否通知が来てギグシャグした空気になったのは今でも忘れない。大好きな仲間と衝突したくなかった私は、毎度ヒヤヒヤした。

面接はどちらかといえば得意な方で、書類審査が通ると最終面接まで進むこともあったが役員が求めている価値観と私の本来の価値観がミスマッチしていることが判明したり、正直なことを言ったら落とされるといった現状であった。

今思えば化粧品業界に適応出来ないのを感じ取れれば良かったのかもしれない。

「社会的に認められる自分」を装うようになったのはこの時からだろうか。
結果3月から始めた就活で内定が貰えたのは6月末。平均的ではあったが、この期間の密度の濃さは忘れられない。


本当の自分とは


【社会人。美容業界での苦悩とまさかの適応障害になる】

美容専門学校を卒業し、夢を追いかけて化粧品会社に入社した。
しかし、企業のアプローチがかなり押し売り的だったことに違和感を感じ、自分の信念との葛藤が始まり、企業の方針との間で迷う日々が続いた。
自身の担当していなかったクレームの責任なども背負わされ、疲弊していた。

勇気を出して上司に相談した返事は、「私たちが本当に良いと思っている自社製品を進めないのは、逆にお客様に失礼。」とのことだった。

今思えば、同じ疑問を持って辞める同僚がかなり多かったが、当時の私は助けを求めることが叶わず、気付いたら日常に支障をきたすほど心身の体調が悪化した。ある日の通勤中には立ち上がれなくなったこともあった。

周りからの勧めもあり心療内科を受診したところ
適応障害と診断され、休職を余儀なくされた。

【転職先で2度目の挫折】


「このままではダメだ。」という焦りの気持ちから、同じ職種で転職し、再出発を果たした。
しかし、まだ適応障害が完治していない状態での転職は本当に良くなかったと痛感した。

この会社では、面接で確定していた配属先から急遽変更になり、片道で約2時間かかる店舗に配属になった。遅番からの早番などの不規則なシフト制度の多さ、通勤時間に身体的にもヘトヘト。まあ、これは私の中ではまだ許容範囲。

追い討ちは女性社会特有の「パワハラ」だった。
美容業界は競争が激しいこともあり、百貨店内の休憩室では従業員が嗚咽している光景を見てきた。

割り切ろうにも、狭い化粧品カウンター内で全て世界が形成されているので、常に監視のような状態だった。
この時、「正社員として自活してほしい」といつも言っていた親からはじめて「お願いだから休んでほしい」と言われ、自分の現状の深刻さに気付いた。

そうして、しぶしぶ病院に行き、現状を説明すると、医師から死ぬなと言わんばかりに働くこと自体にドクターストップがかかってしまった。

【自宅療養生活スタート】

この期間は、ただボーっと過ごす日々に将来への不安が頭をちらつかせる。休めと言われても家にいると熟考してしまい脳は全く休まらなかった。
気晴らしに大好きだった本を開いても、いつもなら読める文章に集中出来ず、活字がほとんど読めず。
社会から外れてしまったのでは無いかいう恐怖と、みんなは頑張ってるのに、私はドクターストップになり療養している罪悪感が押し寄せる。
そんなある日、臨床心理士の方に現状を打ち明けた際にこう言われたのである。

じっとしていることだけが休むことではない。思う存分、好きなことをしてみたら?今のあなたにとってはそれが仕事だよ。」
この言葉を聞いて、私は少し腑に落ちた。

たしかにここ最近何も楽しいと思えることをせず、過去の失敗と未来の不安ばかり考えている。
「今」を生きることが全く出来ていない!

そこからは封じていた趣味を再会。調子が許す時は心を許せる友人と会うこともした。
うつなのに楽しんでもいいのかなという謎の罪悪感があったけれど、心身が落ち着いている時にはなるべく外に出て活動してみた。

すると少しずつではあるが、本来の自分に戻れた気がした。今日はまだ生きてよう〜。と思える日が増えた。

自分が一番辛かった時に会ってくれた友達には
頭が上がらない。


【社会復帰を目指して。新たなスタート】


病状が落ち着いてきて、もう一度社会復帰をしたいなという気持ちでいた時、国の職業訓練制度の存在を知った。
最初は未知の世界だったが、実際に見学に行ってみると、さまざまな背景を持つ方々がいた。
一緒に就職を目指す温かい雰囲気に触れた。ここなら自分を思いやりながら前に進めそうだと感じ、思い切って利用を開始。

現在は来年までに社会復帰することを目指して専門スキルの習得や健康や福祉関連、社会人基礎力など、社会復帰に必要なスキルを学んでいる。

【今後のキャリアに関して】

過去の経験から得たものは教訓だ。
これからも自分を大切にし、希望を忘れずに進んでいきたい。

「一度精神を崩壊した経験があって良かったか」と言える自信はまだ無いが、見える世界は確実に変わった。
死を覚悟したくらい辛かったあの経験は、些細な日常や出来事に幸福を感じるし、人やモノに対しても優しくなれた出来事だったと思う。

これから先の人生は、さまざまなアウトプットを通じて自己表現をすることで、自分の幸福も追求していきたいと考えた。そうやってアウトプットしていくことで、納得出来るキャリアを見つけて行けたらいいな。と思っている。

また、自分の経験を通じて他の人に勇気や希望を与えることが出来たら嬉しいと感じる。

くまみ









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