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般若心経オモロイカモ、それ即ち"あはひ"コミュニケーションズ

小学校の頃、地元のサッカークラブの友達で「粟井(あわい)くん」がいた。試合まえスターティングメンバーを呼ばれる際に審判が名前を読み上げるのだが、ほとんどの人が彼を「くりい(栗井)」と呼んでいた。

改めて見ると「粟・栗」はたしかに似過ぎているし、もはや一緒やんww 大人になってこうやって調べて見て改めて知る。

んで今回は「あはひ」の話

◾️「あはひ」って何?

意味としては「物(もの)と物(もの)の間」。つまりどっちつかずって感じ。

このワードをテーマにしようと思ったキッカケが、全社グループ(YADOKARI株式会社 & 株式会社はじまり商店街)で行っているアクションラーニングの時間でその「あはひ」が出てきた。

▼アクションラーニングとは?
アクションラーニングは、グループで現実の問題に対処し、その解決策を立案・実施していく過程で生じる、実際の行動とそのリフレクション(振り返り)を通じて、個人、そしてグループ・組織の学習する力を養成するチーム学習法です。

(参考記事)

その時に言ってたのがコミュニケーションにおいても「あわひ」の感覚を持って話すと、よりコミュニケーションが円滑になり、お互いの言いたい事をいい合えるムードを作る手段である!的な事を言ってたような気がするww

つまりコミュニケーションにおいて自分自身が縁側のようなものを作る事で話しやすい雰囲気を作る感じかな?相手とコミュニケーションを取りたい場合は、自分自身が壁を作らずに話しかける感覚に近いのかもしれない。

◾️般若心経との親和性

あはひという言葉以外にも縁側、中立、中道など、どっちつかずの考え方は「般若心境」にも通ずるかと。この記事を書こうと思ったのもコチラの記事を読んで、より自分の悩み、葛藤、乾きなどを少し満たしてくれたからだ。

(そん時読んだ般若心経の記事)

つまり「あるけどない、ないけどある」みたいな謎理論wwwとくに好きな記事で部分は「知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。」だ。黒字になってないけど、個人的にはその言い方がなんか好き。

この記事を読了後はなんかスッキリとした気持ちになったし、突き詰めていこうとも思った。過去にも般若心経の現代語訳verは見ているんだけど、今の自分にはピッタリ合う感覚。それぞれのフェーズが変化する毎に、本を読んだ時に刺さる言葉、シーンが変わるのと一緒だ。今の自分には般若心経が心に染みる。まぁ、これは現代語訳verなので、236文字の般若心経を唱えようとはまだまだ思わない、それはもっと先か…

とにかく諸行無常的概念である、全ては変化し続け、それは自分も例外ではなく、「自分が存在するとはどういうことなのか」のヒントをくれたのだ。

けど、待て待て!と。主観的な五感、それにも伴う第六感は自分じゃないのか?

それは自分のものであり、自分のものでない。らしい。

いろんな解釈の仕方があるけど、自分は全体であり、全体は自分でもある感じの考え方がしっくりくるかな。「One for all,all for one」的な精神。言葉にすると理解できるけど、それは理解するのではなく感じるもの。

◾️お前が目指すものって何よ?

人にはそれぞれ得意、苦手、好き、嫌いがあると思うけど、自分は哲学/思想みたいのが好きみたいだ。けど、なんでそうなったんだろうなーって思った時に小学校2年生にハブられてから「人に嫌われたくない」という根底が築かれ、大学4年生の時のバックパッカーの経験で「多様性を知る」で広がりが生まれ、会社を辞めて世界を自転車で走って孤独を経験して「1人では生きていけない」を自覚したといった、それぞれにポイントがつながって今があるのかもしれない。共通するには「人間とは?」みたいなものを無自覚ながら追い求めていたんだろうかと。

まぁ、今は般若心経が刺さったのさ。それは考えもそうなんだけど、その考え方がこれからのビジネスにも通ずるものがあるという直感もあったのもある。そのどっちつかずな感じがあるからこそ、今のVUCA時代(不確実性が高く将来の予測が困難な時代を表す造語)の変化に合わせて生きるのだ。最近流行ってる量子力学の謎(電子が粒であり波であるみたいなやつ)にも通ずると私は思ってる。

具体的なサービスはまだ思いついていないのだが、今の自分の会社(はじまり商店街)のサービスは重なる部分があると思っているし、止まる定住ではなく、多拠点で生活し、はるか昔の狩猟採集社会風な社会が未来にあるかもしれない。食が満たされた人間が次に得ようとするのは魂の充足か。移動する事で役割が変化する事など、あーもっと考えないとなーと思いながら、直感を信じてる。

◾️まとめ

その縁側的感覚(あはひ)をもち、人と人がつながる、いや「重なる」世界が広がるだろう。シーンによって個人の役割は変化し、その土地、コミュニティ、組織といった全体に合わせる時もあれば、独立することもある。世の中に答えなんてないを感じ(理解ではないよ)、身体も精神もあわひように生きる。

自分探しではなく、みんなも探すのだ。きっとその全体感が命なのだから。

「この世界ってフィクションじゃない?」


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