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忙しすぎる現代人。ねぇ、そんなに急いでどこ行くの?

唐突ですが、私は時間の流れの感覚が人よりゆっくりかもしれません。

育った環境の影響が大きいのか、そもそもそういう性質なのか、自分でもはっきりとはわかりません。

なので、学校や職場での画一的で効率的なシルテムの中で、周りに合わせた生き方が時々・・結構苦しくなります。

例えば私は保育園と小学校では給食を食べるのがとっても遅いトロ子ちゃんの一人でした。

周りのみんなは、いただきますをして決められた20〜30分のうちにペロッと給食をたいらげて揃ってごちそうさまをしていました。

私は、これと言って好き嫌いが激しかったわけではないのだけど、なぜかいつも食べるのに時間がかかっていました。

当時の教育では、給食は残してはいけません!という決まりがあったので、私はいつまでもいつまでも残って食べていました。

そのうち、給食後の掃除の時間になっても食べていたことがあって、その時は担任のおばちゃん先生に両ほっぺをパチンと叩かれたことも。

先生曰く、「掃除がしたくないから、わざと食べるのを遅くしているんじゃないのか?」なんてめちゃくちゃなことを言われ、今でいう体罰を受けていた小学1年生の頃。

小学1年生の女の子が、そんな策略的なことをするかいなって今は思います。

早く食べなきゃ、また先生に怒られる、と思ってもやっぱり食べるのが遅いのはず〜っと変わりませんでした。

なんていうか、それ以上私自身では改善しようがない状態をずっと小学校6年間続けていたような気がします。

配られた給食の量が多いのでは?ということで、食べ始める前にちゃんと他の友達にあげたりはしていたんですけど。

たぶん、私にはもっとたくさんの時間が必要だっただけ。

だって、時間をかけて食べると、ちゃんと完食できたんだもの。

毎回毎回、新しい学期が始まる前の目標みたいな欄に、「給食を時間内に食べ終わること」と書いていたのに、一度も達成されたことはありませんでした。

今で言えは、集団行動ができな社会的不適合、というレッテルを貼られていたような子供だったかもしれないですね。

中学校へ上がっても給食を食べるのは相変わらず遅かったし、ホームルームの時間にはいつも遅れて行って先生にはよく注意をされていたけれど、それでも高校、短大進学、社会人になればちゃんと時間を守って行動する人間になっていました。

ただ、社会人になってからは、会社のシステムという歯車の中で慌ただしく動き続ける働き方にはいつもどこかで違和感を感じていたかもしれません。

私が自分の夢を叶えるために飛び込んだパティシエの世界でも、それはいつもついてまわるものでした。今からもう10年くらい前の話です。

もともと好きで自分が選んだお菓子作りの世界でも、朝から晩まで忙しい肉体的労働を続けていくうちに、楽しかったはずのお菓子作りという仕事が全然楽しくなくてむしろ苦痛なものに変わってしまいました。

自分の考えが甘かったと言えばそうなのかもしれないけれど、私は当時、心身ともに疲れ切ってしまってお菓子なんてもう家でだって作らないと思うほど燃え尽きてしまっていました。

毎日朝早くから夜遅くまで働き、そして1週間に1日くらいしか休みがないという生活で休日といえば疲れを少しでも取るために寝て終わるという暮らしが続いていくと、やっぱり人は色々なバランスが崩れていくのかもしれません。

燃え尽きてしまった後は、しばらく何もやる気になれず、ただ、朝起きて朝食を食べて、ゆっくりしているうちにうたた寝をして、起きたらお昼を食べてテレビを観たり音楽を聴いたり好きなことをしているうちにまた眠ってしまって、気付くと夕方になっていて夕飯を食べてお風呂に入って寝る。

そんな日々を過ごすようになった最初の頃は、自分はなんて怠け者で役立たずでダメな人間なんだろう・・という思いがいつも胸の中にありました。

これじゃあ、まるで動物と一緒じゃないか・・

そう思うと、私は何のためにこの世界に生きているのか、意味があるのか分からないじゃないか、と思っていました。

でも、そう思っても、心と身体のチグハグはすぐにはよくならず、自分の中に生まれる葛藤を抱えながらも「生きていく」しかありませんでした。

しばらく引きこもりの生活をしていくうちに、少し外に出てみようと思い、私は家の近所を散歩する生活をするようになりました。

幸いにも私が住んでいた環境は、今も手つかずの自然がまだたくさん残る田舎だったため、私の疲れた心を癒してくれるものが身近にありました。

そのおかげで、私はまた社会に復帰することができました。

ゆっくりだけど、時間をかけて私の心と身体は元気になっていきました。

自然の中に身を置くことで、特別何かすごい人に成らずともあるがままの私でいること、私たちはこの世界に生きていること命があること、それだけで尊いと教えてくれたような気がします。

そして春夏秋冬、自然を感じるゆっくりとした時の流れは私に生きる希望を与えてくれていたのかもしれません。

そう、春になれば田んぼに水が入って、それと同時に一斉にカエルたちが合唱を始める頃。

森では野鳥たちがさえずり、冬の間ずっと春の訪れを地中で眠っていた虫たちが待っていましたとばかりに活動し始めます。

新緑の淡い緑色が若々しいフレッシュな空気を運んでくれて、お日様が日に日に高くそしてエネルギッシュになっていく。

梅雨には大地を潤す雨がしとしとと降り続き、その雨で木々や草花は一気に大きく逞しく成長する。

大地が一斉に躍動し出す梅雨、その季節に私はこの世界に生まれました。

だから、私は自分の生まれた梅雨が一年で一番好きです。

夏になればもくもくもくもく。空を覆い尽くすほど大きくて立派な入道雲が見れて、私はいつもそれを見ては無性にワクワクしていました。

夜の入道雲の中では、ピカピカっと稲妻が走ってそれが神秘的で綺麗で。

私が住んでいた場所は雷の通り道でもあったので、よく雷が家や田んぼや電柱にも落ちていたものです。

子供の頃は怖くて仕方がなかったけれど、でも、こういう言い伝えもあるんですよ。

雷が田んぼに落ちれば、稲がよく育つって。

私たち人間は田んぼにいて雷が落ちたら感電して死んでしまうので、空がゴロゴロしたら田んぼから上がれってよく言っていたみたいです。

真夏の昼間は蝉があちこちで鳴いていて、夕方になればひぐらしが鳴き始める。

西の空が赤く染まってくると、明日は晴れだね〜って明日の天気予報タイムです。

秋には黄金に輝く稲穂が風に揺られて輝いて、春夏とかけてたわわに実った大地の恵みを頂きます。なんといっても新米が美味しい!

私の実家は代々米農家ですから、私も子供の時からずっと自分のところで採れたお米で育ってきました。

そして自然界が活動を休止する冬。

こちら長野の冬は厳しく寒いので、越冬できる生き物たちは地上よりも暖かい地中で春が来るのを待ちます。

冬は寒いけれど、雪がしんしんと積もりしーんと静まりかえって全ての雑音がかき消されるほどの静寂に包まれるのは冬ならではでもあります。

そうして冬の間に積もった雪は、冬が終わって春になれば地中に溶けてまた大地を潤してくれる大切な水源になります。

春夏秋冬、自然の営みのゆったりとした時の流れを感じていると、私たち人間はどれだけ日々を足早に生きているのだろうか、と思わずにはいられません。

そういう私自身だって、田舎に生まれ田舎で暮らしていたって、いつの間にか何かに急いでいて気づいたら息を切らしていて・・

自然界の生き物たちにまるでこう言われているみたいです、「ねぇ、そんなに急いでどこ行くの?」って。

そう気づいた時、一旦立ち止まって、空を見上げて、ふ〜っとゆっくり深呼吸するくらいの心のゆとりが欲しいものです。

このブログは、私自身が普段マイペースで生きているつもりでも、仕事に関してはつい足早に生きてしまいそうな癖を見直してもうちょっとペースダウンして、今の目の前の暮らしを丁寧に味わうために、その1つのツールとして日々の暮らしや思ったことや感じたことを綴っていく場にしたいと思っています。