教養とは

 同じ中高だったB氏のnoteを読んだ。彼は中高で僕とは逆に真面目で対人関係でも波風を立てない男だった。いつも字がいっぱいで頭が痛くなりそうな本(ラノベも小説も新書も)を読み長時間勉強していた。彼は啓蒙という言葉をよく使っていた。知は力だと信じていた。

 多くの知識を身に着け人生を豊かなものにしようとする彼の姿勢自体は私も肯定していた。しかし、彼の教養の得方と使い方はひどく凝り固まったもののように感じられた(大きな誤りだったが)。例えば数学では正解すれば解説なんか一切読まず、高校数学の拡張から大学数学を我流で構築しようとし(ほぼ失敗)、答案にオノマトペを使う私は、参考書の解説を熟読し解法を分類しようと試み、大学数学を専門書で読んで"暗記"し、論理記号を答案で使う彼に全く理解を示さなかった。彼がよく読んでいた難しい哲学書も何の役に立つか分からなかった。要は彼が求めているのは死んだ知識としての教養であり、生きた想像力としての教養ではないと思っていた。

 今年、彼は大学に合格し、私も無事進学した。彼が大学で何をしているのかは具体的にはわからないが、私は大学の本格的なリベラルアーツに苦しめられている。偉大なる先人たちの業績には20年に満たない人生で凡人が身に着けた想像力など遠く及ばない。もがいてももがいても優が来ない科目ばかりだ。研究者、できれば大学教授になるという夢ははかなくも崩れ落ちた。

 そんな中、彼のnote(とその他ネットに上がっている文書)を読み返した。専門用語と記号で論理武装された彼の文書は大学教授のレジュメそのものであった。手遅れだが正しい教養は彼の方だったのだと悟った。

 昨今、コミュニケーション力だの思考力だの紋切り型でない知の形態が広く唱えられている。しかし、それらは実生活で役に立ってもアカデミックの場ではあまりに非力だ。記号はコミュニケーション力の限界を、論理は思考力の限界を突破するために存在する。コンピュータに言い換えれば、話し言葉が高級言語だとしたら記号と論理は低級言語であり、直感的な理解は難しいがより本質的な作業ができる。

 最後に、巨人の肩の大きさを早くから自覚し、謙虚に努力を続けるB氏が優秀な学者、できれば後進を肩に乗せる巨人の一人になることを切に願う。

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