ラジオマン
通勤電車の車内は思い思いに過ごす人であふれている。
目の前のビジネスマン風の男性は膝に鞄を乗せて、ビジネス書を開いている。その隣の女性はスマートフォンに指を滑らしている。私の隣の女性もAmazonプライムでも視聴しているのであろう。画面を横にしてクスクスと口元に手を当てている。
通勤時間の平均所要時間は1時間ほどで、都心に向けてみなそれぐらいの時間を電車で過ごすことになる。
その一時間は可処分時間と言われ、自分の為に使うことが多い。例えば自己研鑽に費やしたり、学生であれば試験勉強や、他にも家で見損ねたエンターテイメントを楽しんだりする。
僕はもっぱらラジオを聴いている。
サックスの軽快な音楽が流れ、現在聴いているタイトルが流れる。
所謂(いわゆる)ジングルと呼ばれるやつだ。
ちょっとチューニングを変えると、他の番組が聴こえる。
––ひまぁだねぇ。吉岡くーん––
––ひまぁ・・・だねぇ。谷本くーん––
––何で、躊躇したんだよ––
––ほんとに暇なときは言いたくないんだよ(笑)––
漫才師の二人組がやっているフリートークの番組だ。最近ではテレビで見かけない二人組だがラジオでは人気を博しているらしく、息が長い番組になっている。こういうところがラジオの温かさだろう。
テレビのような速さが無い。ネットのような惰性も無い。
これは植物を愛でるようなものなのかもしれない。
ゆっくりと、水や土や肥料などに気をつけて、僅かな変化を楽しんで育んでいくのだ。
他の番組にもチャンネルを合わせてみよう。
AMのものを聴くと音がざらつき、1000KHz台特有の音域の狭さからパーソナリティーの声が少し拉げて(ひしゃげて)聴こえる。他の音もまざっているようなその声は、電波から音に戻すときにむしろ大事なところを落としてしまったせいかもしれない。
各放送局の局CMや、番組やコーナーのコール音、どれもこれも一人一人の耳に届くように伝えられている。
視力による情報ではない分、聴いている人は音に敏感になり、言葉や声に含まれる別の情報を読み取ることができる。
怒っていたり、本気で笑っていたり、無理していたり、悲しんでいたり。
真剣な声も、日常の会話では見えない眼差しも、ラジオの向こう側にいる彼らの姿さえ浮かぶほどにありありと想像ができる。
僕は耳たぶを引っ張り、薬指を二、三回、回転をさせた。
チャンネルが変わって、良く聴くあのパーソナリティが次の曲を紹介していた。
––次のナンバーはピチカートファイブで『ベイビー・ポータブル・ロック』です。Have good day!––
📻
僕は小さなころに高熱出してしばらく寝込んだことがあった。
あれは新型のウィルスが蔓延した時期と重なっていたのだから、多分それだったんだろうなと思う。
しかし、診断をした人も未知の病気という事もあり、結局普通の風邪と認定されたのだ。
ようやく病床から這い上がり、自分の足で歩けるようになったころ、世のラジオと僕の耳は直接繋がった。
なにやら、中耳(ちゅうじ)にある骨が特殊な状況下で特性変化したらしく、キヌタ骨が電波をうけることができるようになり、アブミ骨がダイオードのように検波し、音に近い振動にもどして蝸牛(かぎゅう)へ繋ぐことが出来るようになった。耳介(じかい)が同調作業をするらしく、耳たぶを引っ張ると耳介に微妙な形状変化をもたらし、それが電波域を選んでチャンネルの代わりになっているらしい。
我ながらここまでうまくできるのに随分と苦労したものだと感じ入る。
最初はこんな感じに分解して自分の耳の構造変化に気づけたわけではない。
どちらかというと幻聴が聴こえるようになったという事で慌てたものだ。
それに同調作業、つまりチャンネルをあわせることもできないし、検波もうまくいったわけではないから、ところどころで色んな音を拾ってしまった。それはもう自分は「気が狂ったんだ」と捉えて泣きべそをかいたものだ。
しかしそれ以外は特に問題がないこともあり、頭がおかしくなったのではなく耳が変になったんだと理解できてから、しだいと耳に聴こえてくる幻聴に意識が向いて行った。
耳を澄ましてみると(この場合はむしろ電波に注力するとと言い換えるべきかもしれないが)なんだか賑わいのある声や、音楽や、天気予報まで聴こえてくるではないか。
そのころになって、ようやくラジオの電波を拾えるようになったのだと気づいた。決定打は何と言っても、あのAMラジオの有名なジングルを聴いた時だった。
「これは、ラジオだな」と独り言ちたものだ。
––山本まさきのオールナイトニッポン!––
––ぱーぱらっぱ、ぱっぱらぱ、ぱっぱら♪♪ ぱっぱらぱ、ぱっぱら♪♪ ぱっぱら、ぱら♪♪––
ただ、安定して同じラジオ局が聴けるわけではなく移動した場所によって聴こえる局が違ったりした。今にして思えば、電波の強いものから拾っていたのかもしれない。
僕は電車で、汐留、六本木、赤坂、大門、麹町と有名な放送局の近くまで足を伸ばしたものだ。
近くに行くとクリアーに聴こえるし、携帯ラジオも持たずに聴けるわけで、イヤーフリーとはまさにこれだなと一人で喜んでいたものだ。サンドウィッチを片手に。時には暖かい缶コーヒーと一緒に。まあ、おかげで良く風邪を引いた。
いつしか、自分の耳たぶ(耳介)をぐりぐりすると他のラジオ局の音を拾えることが分かった。どうやらこれがチャンネル器のようだ。
そうして、自分の左手の薬指をぐりぐりと回すと音量が変わる。これがどうしてこうなるのか分からないが、彼女からもらった指輪を外すときに気づいた。
あ、今余計な何かを思っただろう。
いかんな、ひとのプライバシーを詮索することは。
失恋のひとつやふたつぐらい僕だってするだろう。如何にイケメンと言えどね。
(まあ、君らには僕のすがたなぞ見えないわけで、容姿などいかようにでも言えるからね)
そんなわけで、僕は耳でラジオが聴ける男になったんだよ。
ラジオマンだ。
––TOKYO FM TOKYO FM エイティーポイントラーブ♪♪––
📻
「radikoって、便利ですよね」
僕の前に座って居た安波がそう言う。なんだそれは? と聴くと聴き逃したラジオを1週間フリーで聴けるらしい。それに電波ではなく、インターネットでラジオを聴けるらしい。
「なんだとぉ!!!」
僕はそれを聞いて、なんだかめちゃくちゃ損をした気がした。いや、損をしている。
僕の能力では昔のラジオなど聴けやしない。
「おい! 安波、そのアプリを運営している会社はどこだ? いまから抗議をしにいく!」
僕と安波は、ファミレスのちょっと格下みたいなところに入って、独身のしがない男二人組でファミリー席を占領していた。
まあ、仕方ない。そこには、ファミリー席ぐらいしかないんだからさ。
「ダメですよ。友部さん。いくら自分だけが特別感を味わいたいからと言って、電波以外を規制するなんて、既得権益から逃れられない日本の官僚のようですよ。もっと大きな目でみないと」
と安波はニヤニヤしながら僕を諭す。この話題を振られた僕の反応が手に取るようにわかっていたせいで、用意していたセリフが言えたんだろう。
まったく。きみってやつはさ。
安波は職場の後輩だ。飄々としていて、その割に僕みたいな、うだつの上がらない先輩の周りをウロチョロする変な奴だった。一度、きみは優秀なんだからもっと本流に近いところに行けと言ったら、「やですよ、仕事増えるじゃないですか。友部さんの下が、一番仕事すくないんですから」といけしゃあしゃあと言われたものだ。先輩を先輩と思わない、失礼な奴である。それでも唯一、会社で言葉を交わす相手でもあったから(上司の車田は報連相のみなのでカウントしていない)、段々と心を許していった。主に僕がだが。
ひょんなことで、ラジオ番組を自耳(じみみ)で聴いていたら(そんな言い方あるのか知らないが)お気に入りのジングルを口に出してしまい、仕事中にラジオを聞いていることを安波に詰問されて、この耳のことを打ち明かしてしまったのだ。
それはそれは恥ずかしい限りであったが、安波は普通に、「めっちゃ珍しですね」と僕の耳を何度も触って応えた。普通に接してくれるのであれば別にいいかと思い、安波にはこの秘密を抱えてもらうことにした。別に大したことじゃないんだが、仕事中に実はラジオを聴いていることをバラされてしまうと、上司の車田が激おこぷんぷん丸だと想像できる。そうなったら、いつもラジオを聴いているかどうかという猜疑心の目であの車田に見られることになる……
想像するだに耐えられない。
「おい。友部。ラジオ聴いてないか?」
「資料の進みが悪いな、友部。ラジオ聴いていただろ?」
「何を笑ってるんだ? 友部。さては、ラジオを聴いているんだろう?」
「友部! ラジオかぁ!!!」
「ラ〜ジ〜部ぇ〜!!!!」
ああ、嫌だ。そんな生活は終わりだ。
「インターネットなんてこの世から無くなればいいんだよ」
radikoへの恨み節がさらに広がって、投げやりに僕は言った。
「友部さん、そうは言っても、Amazonも無くなってしまうし、Googleだって終わっちゃうし、それにエッチな動画も検索できなくなりますよ」
「うぉぉぉむ……」
安波にそう詰め寄られて、呻吟(しんぎん)した。まったく痛いことを突くやつだ。
こいつは、こういうところがある。
「そういえば、安波。きみは、悩みがあると言っていなかったか?」
つまらない話で僕が悶絶するところ見て喜んでいた安波であったが、そもそも安波が僕を呼び出したのだった。思い出したので、安波に訊いたが、なんのことでしたっけ? みたいな顔をしている。
「いや、なんかあったはずだよ。多分。相当神妙な声だったぞ。今朝は」
今朝のことだ。
安波は普段被らない帽子を目深にかぶり、「友部さん、終わったらちょっと付き合ってください」と言った。その言い方が、普段の斜に構えている安波らしくなく、気圧された形で僕は頷くだけで応えた。それを見た安波は、安心したわけでもなく、喜ぶでもなく、小さく「うっす」とだけ言って僕の前を通り過ぎていった。
何かを決意したような、そんな風に思えた。
「きみだって色々あるんだろう? なんというか、僕が答えをだすんじゃなくてさ、人に説明することで、頭の中が整理できることもあるんだよ。『誰にも届かない言葉というのは哀しい。どんなつまらない言葉でも、聞いてくれる人がいることは幸せだ』ってね」
僕はいつかのラジオで聴いた、若いころは貧乏だったがプロスポーツ選手になった男が昔読んだ小説のセリフに感銘したという、その時の言葉を口にした。
それを聴いたときは、「なにを青臭いことを言ってるんだ」と毒づいていたが、こんなところですっと差し出せるいい言葉だったと思い、あの頃の自分を後頭部から叩いてやりたいと思う。
「それ、玉本選手の言葉じゃないですか?」
「え? 誰それ?」
「あ、いえ、知らないなら良いんです。誰かの受け売りの言葉を言われたと思ってしまって……ごめんなさい。やっぱり友部さんには敵わないな」
ひやりとしたよ、安波。玉本選手が誰か分からなかったのは事実だが、受け売りなのはその通りなんだからさ。
「で、なんなんだ?」
僕はこの焦りを見透かされないように安波の言葉を促しながら、目の前の水を音を立てずに飲んだ。
「こんなことを言うのは恥ずかしいですが、自分の人生では、もう主役になれないんじゃないかなと思ってまして」
「ほう、主役」
って、舞台とかの? ああいうのに憧れてたんだ、安波は……
「あ、舞台とか、演劇とかの主役っていう直接的な意味でなく、比喩なんですけどね」
「分かってるよ。そんなことは……」
頭のなかで、最近見た若手の俳優をさがしていたとは言い難いが……
「まあ、なんか白けてしまって。もうどうでも良いと思ってしまって」
「まあ、あるよな。そういうことも」
「で、会社を辞めようかなって」
「辞めてどうするんだよ」
「え?」「あ?」
驚いた顔で、安波がこっちを見ている。何かを誤ったらしい。慌てて取り繕うしかない。
「あ、ほら。辞めるにしても、なんかどうするんだろうな? って単純に」
「ああ、一瞬車田さんに相談したんだっけ? って思っちゃいましたよ。デジャヴュ見たいな返しをするから」
「ははははは! 僕とあいつを一緒にするなよ」
仕事って大事じゃん。食べていくためにやってるんじゃん。だから簡単に辞めちゃダメじゃんって思ってしまった僕は、車田レベルでダメだったらしい。安波、僕はきみの相談事をちゃんと聴けるタイプの人間ではないかもしれない。幻滅されてしまう。おそらく、多分、きっと。
「まあ、プータローになろうかなって」
「豚の? あ、中華か?」
もごもごと、口の中でそれを言っていたが安波には届いてなかったようだった。
もしくは、聞こえないふりをしてくれたのか。
「絶対、友部さんって良いですよ」
「え? まあな。」
一瞬、どういう意味でかが分からなかったが、褒められたときは全力で肯定する精神で相槌をうった。
「ええ。だって、特殊じゃないですか?」
「まあ、そうだな。良い男だもんな」
「いや、そんなこと言ってません」
「え? あ、クレバーだもんな?」
「いや、どっちかと言えばアホですよ」
「きみ……そんな風に思ってたのかよ」
「ショックを受けないでください。自明の理ですよ」
冷めた目で安波が言うので、ぐうぉと日本語とはかけはなれた返事をしておいた。
「つまり、耳で直接ラジオが聴けるってことですよ」
「なんだ」
「そんなことかと思うでしょう?」
いつもは僕の自耳で聴くラジオのことをバカにしていたくせに、安波がこんな風に羨んでいるなんてのは知りもしなかった。僕としては、「ほら見たことか」と小学生のころに口にしていた、あの勝ち誇った時の言葉を言いそうになるのをギリギリでやめておいた。
「違うんですよ、友部さんは。他人と明らかに違うってことは、才能ですよ。まあ、友部さんのそれが誰の役に立つかは知りませんけどね」
安波は珈琲を喉に流し込んでそう言った。
「いや、ちゃんと、職場でこっそりラジオが聞けるし……」
ごにょごにょと口の中で反論を反芻させた。
「俺みたいな普通の人間なんか、ほんとうに生きていても意味が無いんですよ」
「いや、きみは普通じゃないよ。変だよ」
「友部さんには言われたくないなぁ」
安波はにっかりと歯を見せて笑った。職場で見せている愛想笑いではない本心の笑い顔だ。
「安波は僕と違って、頭もいいしさ。そんな風にひねくれるなよ」
「そういうのじゃ無いんですよね。ひねくれるとかだと生命力があるんですよ。俺のはもっと緩やかに死に向かってる感じですよ。人生は死ぬまでの間の暇つぶしだって言いますけどね。俺は早くそれを迎えたいんですよ」
「なんか、聴いたことあるぞ。その名言」
僕は記憶のどっかにしまいこんだ、その名言のうんちくを探そうとした。が、すぐに見つからない。というか目の前の安波はその発言者を知りたいんじゃなくて、自分の話を聴いてもらいたんだよ。
僕が発したその言葉のせいで、安波が話の接穂を見失った。
座っていた席のすぐ横についている窓がガタガタと揺れはじめる。
明日か、明後日かに日本の南に到着する高気圧のせいか、窓の外は台風かと思うかのような風の強さだった。薄いトレンチコートを着ている女性が自分の襟をつかみながら前かがみで歩いていた。
窓の外を僕と一緒に眺めていた安波は、そのまま外を見ながら淡々と今の自分の状況を伝え初めた。この会社が悪いとも良いとも言えないし、自分も良いとも悪いとも言えない。この後、自分の人生は良いとも悪いとも言えないまま進み、そして死ぬんだと思うと、砂漠のなかにぽつんと捨てられたアメリカのコミックみたいな気分になるそうだ。つまり、その場にそぐわないし、誰にも求められていない。
僕はその話をなるべく遮らないように聴いた。
まるで深夜のラジオのようなトーンだなとも思っていた。
「てことで、仕事を辞めてとにかく無計画に生きたいんです。友部さんに会えて良かったですよ。なんというか、面白いですから」
照れた感じで言うから、本当にそう思っていてくれたんだと驚く。
そんな風に言うなよ、べつに今生の別れじゃないんだからさ。
「そんなわけで、友部さんと話しておいておきたくて。すみませんね、時間をもらって」
「いいよ。どうせ暇じゃん。死ぬまでは暇なんだから」
だろって感じで言ったら
「ちょっと友部さんの癖に……」
僕は安波の心のまとをめがけて言葉を投げられたみたいだった。
こんな風に、安波が心のまとを開けていることは無かった。
これまでの中で、ただの一度も。
ちいさいけれど隙間が開いているんだったら。
「あのさ、安波は勘違いしているよ」
「はぁ?」
「ほとんど、全てにおいて普通が圧倒的怖いんだよ」
「え?」
「伊坂幸太郎が書いているんだよ。世間とは大半の普通の人々のソレだ。だが、世間こそが悪魔以上の力を持つ。誰とは言わずに、無差別に人を襲うのだと」
「本当ですか? その話」
「いや、本当かどうかは知らない。というよりぼやけてそう覚えてる。そんな感じのことをラジオで誰かが言っていたと思う。だから全て嘘とは言わないけれど、伊坂幸太郎が本当にそんなことを書いているかは知らない」
「なんですか? それ」
「つまりだよ。安波は大間違いをしているってことだ。主人公たる異質な人間は、この世の不条理の大半を占めている『世間』によって圧殺される運命なわけだ。安波が言うような普通は普通で嫌だなんてのは、誤っている。普通というだけでこの悪魔的世間に加担をしているわけだから、十分君は悪役として目立っているわけだよ」
「はぁ……」
言ったは良いが、なんのことを言っているのかは分からない。僕にさえ。
まあ、安波が言うようなことよりも、こっちの方が腑に落ちるぐらいのつもりで言っている。
普通を辞めるために会社を辞めても普通から逃れることなどできないんだから、普通は悪魔だと思った方がよっぽど健康的に思えたからだ。
「変ですね、友部さんは」
「いや、ラジオで聴いたんだって」
僕がそう言うと「それって何でもつかえるじゃないですか」と言って安波は笑った。
本当に聴いたんだよ。まあ、何の番組かは忘れてしまったけれど。
––昔の話なんですけどね、何かの歌の英訳を僕がしてたんですよ。で、この世界はもう…ってところで途切れてて。そこまでしか英訳してないから、先生がこの先は? って訊くわけですよ。多分、もう……終わりじゃないかなって、いやあ。そしたら先生が良い歌だって。いや、それはもう、この歌じゃないじゃんって(笑)––
📻
安波はあの後、すぐに辞表をを出して2か月後には辞めてしまった。
僕は安波を引き留めることはできなかったのだと思うが、それでもなんだか悪い方向には向かってない気もした。
あのあと、安波が抱えていた仕事を皆で分担をすることになり、もちろん車田も持つようになった。
そのせいか車田の機嫌がすこぶる悪い日が続いた。まるで大雨が止まない空のように、いつまでも変わらない黒い雲が続いているような気がした。
『きみが辞めたせいで、車田が狂ったように怒り散らしているぞ』
『へぇ、どうして俺のせいなんですか?』
安波にLINEで愚痴を言えるほど僕らはその後も連絡を取り合っていた。
安波は失業保険を受け取りながら、なにやら勉強に励んでいるらしい。やりたいことをするためには、どうしても知識を身に着けておかなければいけないらしい。
『だから、きみの仕事を分担して、業務量が増えたからだよ』
『それなら、俺のせいでなく、車田の能力不足のせいですね』
『違うな。きみのせいだ。そして、きみが居なくなるとそれなりに影響が出るという証左ということだ。良かったな、普通じゃなくて、ちゃんと居たんだよ』
『なんですか? それ(笑いのマーク)』
大雨なんか降ろうが、雷が落ちようが、自然が起こす何かを僕らはやり過ごす。そう、誰かがラジオで言っていた気がする。そうね。
––続いて、各地のお天気です。関東地方は全体的に晴れも様です。ですが、中国大陸の奥地で発生している黄砂が、明日の夕方以降に日本海を渡って到達する模様です。マスクを着けて外出を心がけましょう––
📻
ぶるぶると風が屋上のアンテナを揺らしていた。
このアンテナはテレビのアンテナだろうなとか思いながら僕は屋上に立っていた。
屋上というのはとてもいい。
ラジオの音が聴きやすい。電波というのは空間を渡り、そして大気の層で反射をしているらしい。僕の耳にだけ聴こえるラジオ。
だから、僕はお昼ご飯をたまに屋上で食べるようにしている。緩いビル管理のおかげだろう。
屋上にでたら、空中に哀しい音、ノリがよい声、明日の予報、昨日のニュース、世界の恐ろしいこと、身近に起こる小さな幸せ、それらラジオの音は電波にのって周りを揺らしていた。
遠くのビルの屋上には航空法で規制された、赤と白のアンテナが立っていた。あのアンテナにはどんな電波が拾われているのだろう。僕に聞こえる音とは違う電波を拾っているのだろうか?
中国から黄砂が舞い込んでくる。
黄色い粒子が電磁を狂わせた。
世界の形勢はあの新型感染症のせいで一気に変わっていった。
自国の利益を優先することに世論を抑え込むことができる国が強国へと進んでいった。
具体的には隣の2国が強国として返り咲き、世界を席巻していた。
大西洋と太平洋の間にあった帝国はこの競争に破れてしまい、ヨーロッパ諸国は早いうちから隣国のどちらかにすり寄っていった。
歴史がそうだったように、あちこちでこの強国同士の代理戦争が行われるようになっていった。特に朝鮮半島は再び戦時下に陥り、激しい内戦が繰り広げられている。
日本はその戦争に加担することで特需を得ようとしていた。
黄砂が巻きあがると偏西風にのって、大陸から朝鮮半島に流れていく。黄色い鉱物の粒子に微量のイオンがまとわりついている。中国の軍部はこのイオンの力を増幅させ、朝鮮半島では電磁波が遮断することができる現象を発生させた。それは電波が使いずらい状況になるということになる。
この状況下で人間と人間の情報交換だけが遮断された。
そのなか、AIドローンの自走爆撃機が活躍したのは言うまでもない。
敵も味方も関係なく生体反応を示すものを見つけては爆撃を繰り返していたそうだ。
黄砂が舞うということは、ドローンが上空を舞い、人命が奪われているということだ。
––さて、今夜のSLOW NEWSとして取り上げるの中国とロシアの代理戦争が続く朝鮮半島についてです。今までの内戦とは違い、世界の倫理観は強国であるこの二国によって全てねじ伏せられており、一般市民も巻き込まれる悲惨な戦況下にあります。誰も彼らを止めることが出来ない中、誰かが勇気の声をあげるほかありません。今日は長年中国の政治的な状況について取材をしてきた、ジャーナリスト崎本さんをお呼びしました。さ、ニュースを深堀して、もっとこの問題の本質に迫りましょう––
📻
安波と連絡が取れなくなった。
いくらLINEをしても全然返信が無い。心配になって安波の家に行ったら、もぬけの殻であった。大家に聞いたところ随分前に家を取っ払ったそうで、僕が連絡を取っているころにはすでに引っ越しを計画していたようだった。
最後に大家に挨拶をしにきた安波は、バックパッカーのような格好で出ていったそうだ。家具や何かは全て売り払ってしまったとのことで、もう戻る気が無かったという。
多分、朝鮮半島に向かったのだろう。
日本の大手メディアが隣国の惨事を流せないなか、若者たちがそれらをビデオにしてインターネットに流すムーブメントが起こっていたらしい。
真面目な人間が考える、とても真っ当な精神だった。
そして、彼らはことごとくドローンの毒牙にかけられて帰らぬ人となっていた。
安波もおそらく同じように思ったのだろう。
どういう因果なのかは分からないが、他の若者と同様、携帯カメラを片手に戦地に入っていったのだろう。
📻
しばらくしたら、会社経由で安波の訃報を聞くことになった。
真っ当な精神のまま、殉職したのか。
それとも、暇つぶしの時間のダイヤルを自分で反対に回したのか。
あるいは、普通を辞めたかっただけなのか。
僕には分からないでいた。
「あいつは、全然だめだったな。話には乗るのに全然仕事に精を出さないやつでさぁ」
車田が周りの部下の肩を叩きながら話して回っていた。
「でも、ここに居るときじゃなくて良かったな」
なにが?と思う。
「死因でもわかったんですか?」
僕は車田は上司だったこともあり、詳しく情報を知っているのかと思い訊いてみた?
「いや、知らんよ? どうせ自殺でもしたんじゃないのか?」
「何が『どうせ』なんですか?」
僕は思わず口にした。
「なんだよ。友部ぇ」
ハブが獲物を見つけた時の表情を人間に映したらこんな顔だろうなと、ふと思った。
「いえ、車田さんがそう結論付ける理由でもあるのかと思って」
「あ? 別にあいつの人間性を見ていたら、そう考えるのが普通ってだけだよ」
「人間性? 普通?」
「流石、安波くんの友達というわけか。友部のくせに俺に難癖でもつけるのか?」
「いえ、後輩ですよ」
「ああ? 馬鹿だな、そういうことじゃない」
指摘をしてやり、一瞬の沸騰を横に置いてもらった。
「車田さんって、どうやって死ぬんでしょうね?」
多分、車田のほほに釣り針でも引っかかっているんだろうな。口がひくひくと動いてやがる。まあ、この場合はワナワナか。
「ああ? てめぇ、どういう意味だ」
「だから、ろくな死に方しないでしょうねってことですよ。元同僚の死をそんな風に言えるなんて」
「てめぇ、言って良いことと悪いことがあるだろう! ああ?」
「あれ? 逆に車田さんこそ『それ』が分からないんじゃなくて? 言って悪いことだったと思いますよ。それも分からないんですか––」
顔を真っ赤にした車田がこっちに向かってきていた。車田のこぶしがスローモーションで近づいてくるのが見えた。
「大丈夫ですか? 友部さん?」
もちろん大丈夫じゃない。気を失っていたのだろうか。気づくと会社のソファーに横になっていた。辺りは暗くなっており、窓の外は真っ暗な街並みに変わり果てていた。
うち一番の若手の郷田くんが介抱してくれたらしい。
口から微妙に血がでているが、どちらかというと受け身を失敗して頭を撃ったらしい。
軽い脳震盪だったと思うが、念のため付き添ってくれたらしい。
ご丁寧にあたまに冷えピタが貼ってあった。車田の伝言「悪かったな」を僕に申し付けるためにいたんだろうなと思い、すぐに帰してあげた。
安波、僕は特別でもなんでもないじゃないか。
––いやぁ、感動というか、一人すごく納得したんですけどね。奥田英郎の作品でこう言ってます『ままならない人生、降りかかる不幸、自分の手には負えない運命が、行く手には多く横たわっている。それを一人で背負わねばならないとしたら、世界はつらいばかりである』と。これは金言ですよね。人間は一人では居られないですよぉ––
📻
ラジオの電波は遠くまで届くらしい。場合によって近隣の国まで届くこともあるぐらいだ。たまにAMラジオで韓国のラジオを拾うことがあるのはそれが理由らしい。電波なんてのは人間には見えないわけだから、もしかしたら、電波も残っていたりするのかもしれない。
安波が死んでしまうより前に、僕宛に見知らぬ外国のアカウントからLINEが届いた。
数字が4桁だけ書いてあった。
多分、なんかの詐欺だと猜疑心で見ていた僕はそのあとすぐにそれを削除した。
ある日、僕はその数字が何かと閃いてしまった。
ラジオの番組のKHzだ。
おい、そんな微妙な数字を調整できるわけじゃないからな!
そうぼやきながら自分の耳たぶを必死で回した……頼む。頼むよ。
なんのためにあるんだよと。
僅かなその電波帯をつかまえて。
見つけて。
僕の。
僕のラジオが始まる。
馬鹿やろう、難しいんだからな。
––始まりました! ラジオ番組 tomobeの夜、リスリスナーは多分一人だけ––
ラジオの声を聴いたら、懐かしい気持ちが胸に流れ込んできた。
––さて、私はメインパーソナリティーの––
思ったより面白いじゃん
––今日は聴きたい曲はこれかなー?––
ちょっと聴いてみたけど、まるで知らない曲だった。気分的には違うけど、ま、いっか。他にはどんなのがあるんだ?
––実は我が家の近くで、こんな事があったんですよ––
それはやだなぁ。
家はホームだよな。
安心って書いてホームって読むんだよなぁ。
––さて、リスナーからお手紙を読みましょう––
誰も送ってないだろう。何言ってんだよ安波。
––『安波、元気か? まあ、いいや元気でなくても』って酷いな、このリスナー。––
それ、僕が送ったLINEじゃないか
––『それより、こないだ綺麗な女性に自分から話しかけたんだよ。もう、麗しくてさ、神々しいのなんの。話しを聞いて下さったもんで、勢いに乗ってその方の美しさの根源とかを話してたら、最終的にはオッパイの形だって伝えたんだよ』何やってんですか…友部さん。変態じゃ無いですか––
あ、そう言えば、そんな事もあったな。変態じゃないよ。紳士だよ。
––『そしたら、首がもげるかと思うぐらい頬を叩かれたんだよー』でしょうね。このリスナー、変な人だなぁ––
うるせぇ……
––……––
まるで信じられない事だけど、安波はラジオって形で僕に返事を残してたみたいだった。ジングルやタイトルコール、音楽まで用意して。原稿なんかも書いたりしてたんだろうな。アイツ真面目だもんな。放送用の器具も用意したんだろうな。何度も撮り直したのかな。それを作ってたから返事がなかったんだろうか。何の勉強をしてたかと思えば。
なんだよ、tomobeの夜って。どんなタイトルにしてんだよ。ほんと……
馬鹿なやつ。
其れなら、こっちに居れば良い。
もっと僕とつまらない毎日を過せばいい。
そんなの、特別でも、主人公でも無い。
馬鹿なだけだよ。
馬鹿だなぁ…
––さぁ! 今日はここまで。また明日、ラジオで会いましょう––
明日も、またきみを。
きみのラジオを待っているよ。
📻
夜の時間はAM電波が届きやすいらしい。
途中の干渉が少ないせいだという。
そのせいだろう、夜の空や街やビル影には電波の残り滓みたいなのがフラフラとある。
どんな電波でも、それは電波だ。
其れらだって聴かれたいはずだ。
電波に乗せられた『人の声』は誰かが変換してあげないと聴かれることはない。
僕は其れをするさ。
ザザーっ
ザザーっ
ザザーっ……
了
#ネムキリスペクト
#12394文字
#小説
#掌編小説
#ラジオ
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