見出し画像

君たちはどう生きるか、を観たあとで、私たちは生々しい思索に耽る。

君たちはどう生きるか
宮﨑駿監督の最後のアニメーション作品として、スタジオジブリが7年の歳月を経て制作状況を一切漏洩させない極秘体制で作られてきたアニメーション映画が完成して、今年の7月14日に劇場公開された。公開後も宣伝も一切行わない異例の状況下で、既に映画を観た観客からの口コミがネットに広がり、私見だが僅かながらのざわめきが世に起こっていることを感じている。興行収入は公開後4日で20億円に届く好スタートを切った情報が伝わっているが、よりプレーンな口コミ感想は正直に言って賛否両論だ。肯定派は今までのジブリのイメージが凝縮されている、ジブリの原液だというものが殆どだが、否定派は話の辻褄が合わなくてストーリーがわからない、難解だ、つまらない、と直截的なものが多い。そんな状況下で、テクノ・ポエトリー・リーディング・ユニットdeus ex machinaのM*A*S*Hとvanillableepも満を持して映画館に駆け付けた。そして互いに肯定否定の意見を抱きながら、Twitter (X) のスペース機能を使って、君たちはどう生きるかに関する対談を試みた。本来なら録音して音声データをアーカイブする予定だったが、諸事情で録音することができなかった。そこには恐らく、神が自らの名前を発してはいけないと人間に忠告するような超自然的現象が起きたのかもしれない。だからこそ人間である我々は、初めに言葉があって、言葉は神と共にあり、言葉は神であることを信じて、録音できなかった言葉をここに文書化しようと思う。


最初に: 母について (vanillableep雑感)

君たちはどう生きるかの主人公である眞人少年は、物語の序盤で、不慮の火災事故によってお母さんを亡くしてしまいます。それから一年が経ち、眞人は、父が亡くなった母の妹と再婚することを伝えられます。物語はこのような複雑な家庭環境を示すところから始まるのです。
そして、この映画を観た観客のひとりであるvanillableepも、実際に少年時代に母親を亡くして、その没後一年後に父親から再婚することを伝えられて新しく母になる女性を紹介されたと言っています。vanillableepは、君たちはどう生きるかを観て、眞人の境遇が他人事に見えなかった、鑑賞中は客観視することができなかったと打ち明けています。ジブリ映画に造詣の深い方々が宮﨑駿が描く母性の在り方として、ここで描かれている眞人の亡き母と新しく迎える母の存在を、物語論の言葉で表そうとする方々が数多く見受けられますが、vanillableepはそんな理論も概念も関係なく、生身の人間が体験したことをフィクションの映画に重ねて、マジに驚愕したことを、友人であるM*A*S*Hに打ち明けたのです。実際に、映画では眞人が新しい母、夏子に対してよそよそしい態度を取りますが、vanillableepも現実では同じ行為をしたそうです。
ただ、映画の中では、この新しい母である夏子が、突然住居を抜け出して敷地内の深部に眠る謎の塔屋敷に向かったことに対して、よそよそしかった眞人は、夏子を探す為に塔屋敷に乗り込むことを決意します。vanillableepにも、もし当時の新しいお母さんが映画と同じようにいなくなったら、やはり君もお母さんを探しに行くのかい?と尋ねたら、そんなことする訳ないよ!と即答されましたね。今だったら人間関係が構築されているから探しにいくけど、まだ新しい母と出会ったばかりの頃は、自分も子どもだから、咄嗟の対応なんかできないとのことでした。この現実のvanillableepの反応と映画の眞人の行動の差異が、君たちはどう生きるかのフィクションとしての価値を表しているのでしょう。

次に: 実験映画の面白さ (M*A*S*H雑感)

M*A*S*Hが君たちはどう生きるかを初見した時にはシンプルに実験映画だなと思いました。寺山修司の草迷宮や田園に死す、デヴィッド・リンチのイレイザーヘッドやブルーベルベット、ツイン・ピークスのような映画だと思いました。これらの映画は極端に言うとストーリーに整合性がなく、刺激的なイメージに満ち溢れた映像が、前後の文脈に関係なく無意味に矢継ぎ早に連鎖していくのが特徴です。ストーリー性のある映画に慣れている人は、前述の純粋な映像に対して、何故それが映されているのか、その意味を求めてしまうのですが、そういう説明を放棄して左脳ではなく右脳で映像そのものを味わうのが、実験映画の愉しみ方だと思っています。
Twitter (X) で高橋源一郎さんも「俺みたいなフィルターが壊れた老人や長男(アニメオタク)のようにフィルターが歪んだ人間、フィルターが無い子どもには最高の映画なんじゃないかな。」と言っています。フィルターというのは固定した価値観のことで、その価値観に合わないものを目にすると不快になり、自分が変えられてしまうことを嫌がる人たちが出てくる、ということを高橋さんは付け加えています。
確かに今までに見てきたことや体験したこととは違うことが起こると、人間は戸惑いますよね。特に宮﨑駿さんの場合は今までにトトロとかナウシカとか千と千尋という作品を作ってきたから、最新作も同じものを作るに違いない!という先入観を抱きながら君たちはどう生きるかを観ることになるので、結果的に予想していたのとは違う!という事態が起きることになります。それを、自分の先入観やフィルターを信じて相手がだめだ!と決めつけるか、フィルターを取っ外して今までとは違う表現を試みたのだな、味なことをしやがる(にやり)となるかだと思います。

序盤について: 戦争、疎開、純文学的な展開

それでは改めて、君たちはどう生きるかのストーリーを追ってみましょう。既に色々な方々が指摘するジブリの原液と言われる要素が、物語の至る所に散り嵌められていて、既視感で飽きてしまう箇所もありますが、正直に語っていきましょう。

物語の序盤は太平洋戦争に突入した日本が描かれています。東京に住む主人公の眞人少年が家族と共に地方都市への疎開を行うことで、物語は始まります。この戦時中の日本の描写は、宮崎駿監督の前作である風立ちぬでも扱っていて、同じ戦争を主題にした高畑勲監督の火垂るの墓も思い起こします。戦争の陰湿な空気をジブリアニメ的にデフォルメしてカリカチュア化されたキャラクターでソフトに描く姿勢を、ジブリアニメを親しんだ観客は嫌と言うほどに味わってきたはずです。そこには永遠の0のような娯楽性も、魁!!男塾の若き日の江田島平八のようなユーモア感覚もありません。柔らかいキャラクターで真綿で首を絞めるように戦争の残酷さを観客に突き付ける。それが宮﨑駿の表現姿勢であり、ある意味、宮﨑駿チルドレンと言われる新海誠や細田守とは違う重さが、そこに籠められていると思います。

そしてここで描かれている戦争の匂い、戦時中の重苦しさには、敢えて言えば純文学の小説を読むような感覚が、紙の本の頁を繰りながら言葉の流れを追っていくような感覚が籠められているのがわかります。ジブリアニメお得意のファミリー向けのわかりやすいストーリーでハラハラドキドキワクワクするエンタメ感覚というものは、ここでは物の見事に存在しないのです。

戦争、母の死、疎開、新しい母との葛藤、疎開先の新しい家に佇む静謐さと不穏さ、裏庭の塔屋敷、大叔父の噂、謎を問い掛ける青鷺の存在。 

これらの言葉のひとつひとつを脳内で変換する。左脳の言語野から右脳の視覚野聴覚野に向けて流動的知性が迸ることによって至高体験を会得する。そんな感覚が、君たちはどう生きるかの序盤を鑑賞していると、理解することができます。そこには本当に、信じられないくらいに、ゆったりとした時間が流れています。悪く言えば地味で退屈に感じてしまうけれど、ぎりぎりのところで睡魔が襲ってくるのを阻止する緊張感というものが、そこに存在しています。

強いて言えばアンドレイ・タルコフスキー監督が撮った映画に近い感覚が、イタリアのバーニョ・ヴィニョーニ村の広場の床から湧き出る温泉の湯溜まりに足を取られながらも、手にした燭台の火を消さずに濡れた広場を何往復もする映像に近い感覚が、君たちはどう生きるかにもあります。タルコフスキーの映画には、ミニマル・ミュージックのように美しい旋律を何回も繰り返すことによって聞き手の脳内をα波で満たしてゆく、そんな感覚の映像に満ち溢れているのが特徴なのですが、宮﨑駿の晩年作にあたるこの映画にも同じ匂いが漂っています。
そして前述引用したタルコフスキー映画のノスタルジアでは、引用通りにα波で満たされる映像が続いていくのですが、突如として静寂を切り裂くような荒々しい映像も挿入されるのです。それはイタリアのカンピドリオ広場のマルクス・アウレリウス騎馬像の上で、扇動者がガソリンを浴びて焼身自死を試みる映像です。紅蓮の炎を身に纏い悶え苦しむ扇動者を憐れむように、ベートーヴェンの交響曲第九番第四楽章“歓喜の歌”が流れていきます。このような静から動へと切り替わる映像を挿入することで、カタルシスと呼ばれる感情の爆発、心の奔流を引き起こして、観客は感動を得るのです。

君たちはどう生きるかの序盤も、ゆったりとした流れの中で、既に宣伝用ポスターで周知されている青鷺の存在が、少しずつ姿を現して主人公の眞人に介入することで、また新しい住処の裏庭に潜む謎の塔屋敷と、それに纏わる遠縁者の大叔父の噂を耳にすることで、ミステリー小説の謎解きをするような心持ちを観客は抱くようになるでしょう。
そして遂に、眞人は塔屋敷に侵入します。噂された大叔父と呼ばれる人物と出会った後に、眞人と、付き添っていたキリコと呼ばれるおばあちゃんは、巻き込まれるような形で、塔屋敷の床の底へと理不尽な状況で沈んでいくのです。まるで村上春樹が書いた小説の“壁抜け”のように、この映画では“床抜け”をして、眞人とキリコおばあちゃんは異世界に誘われていくのです。

中盤について1: 塔屋敷から異世界、若返る老婆、死んだ母との再会

序盤のゆったりとした時間を掻き消すように、物語が健全な物語として機能するように、現実世界から異世界へと主人公眞人が転送された後は、観客が期待していた大胆な視覚的転換、即ちカタルシスが待ち構えています。
そこには大海原が広がっていました。宮崎駿アニメを熟知している人ならおわかりの未来少年コナンのような、それよりももっと原体験である太陽の王子ホルスの大冒険のような海洋冒険シーンが描かれていきます。そして前作風立ちぬでも扱われたアルノルト・ベックリンの絵画“死の島”も再引用されています。島に鎮座するストーンヘンジのような墓に刻まれた文字は“ワレヲ学ブ者ハ死ス”であり、deus ex machinaのvanillableepはこれをナチス・ドイツ政権下のアウシュビッツ収容所に掲げられた“Arbeit macht frei.(働けば自由になる)”と重ねています。極論を言えばここにもジブリの原液で既視感のある表現が重ねられています。正直に言えばこの段階で期待していたカタルシスが萎えていくのを多くの観客が体験したことでしょう。

それでも物語を追っていたら、水平線の向こう側から小型帆船に乗って、漁師の風体をした若い女性が颯爽と登場します。後にその女性の名前はキリコというのがわかります。それは序盤で塔屋敷に侵入した眞人と共に異世界に紛れ込んでしまったキリコおばあちゃん、その人だったのです! ここでこの文章を書いているdeus ex machinaのM*A*S*Hはハッとしました! 現実世界から異世界へ転送された時に得れるカタルシスは、視覚的且つ右脳的にはジブリ原液で既視感がありインパクトに欠けるのが主たるものだったのですが、それよりも右脳よりも左脳でびっくりさせて思考停止させる演出を用意して、序盤で費やした物語の説明や前後の文脈など一切無視して、現実世界では老婆だった人物を異世界ではいきなり若返らせてしまうという、常識では絶対にあり得ないことを起こして、それをカタルシスに結び付けたのです!
冷静に考えると、これは不条理主義に則って作劇された物語だというのがわかってきます。不条理文学の代表作とも言えるフランツ・カフカの変身は、題名通りに人間が人間以外の人外キャラに変身する話だし、若返るという主題で紐解くと、パッと思いつくのはSF小説でR.A.ハインラインの悪徳なんかこわくない、P.K.ディックの逆まわりの世界があります。あと漫画で手塚治虫のふしぎなメルモは外せない。他にもインディーズの小説投稿サイト、小説家になろう、カクヨム、エブリスタなどで流行っている異世界物の作品でも、若返りスキルをよく見かけます。そういう意味では大御所の宮﨑駿が、衒いなく、小説投稿サイトで流行っていることを取り入れているのは、柔軟だと思いますね。

更に中盤では、前述で挙げた若返ったキリコと同等クラスのキャラクターで、火を自由自在に扱う異能力少女ヒミが登場します。後に彼女の正体もわかるのですが、物語序盤の現実世界で火災事故で亡くなった眞人の母親が、異世界に転生して、眞人と同じくらいの歳の少女に若返ったような姿になっていたのです。
実際は物語をよく見ると、異なる時間軸で若き日の眞人の母が実家の裏庭にある塔屋敷に侵入して行方不明になったエピソードが語られていたので、その時の彼女がマルチバース的な設定で時空を超えて異世界に現れたことになるのかもしれません。結果的に現実世界で死に別れた母が、異世界では生きていたことになり、別れを悲しみ塞ぎ込んでいた眞人にとっては母との再会は喜ぶべき出来事になるはずです。……そのはずなのですが、確かに物語の中でヒミの手料理のバターとジャムたっぷりのトーストを眞人が頬張るシーンが描かれるので、このまま生き返った母と一緒に桃源郷のような異世界で暮していけば幸せになれるのに……と思ってしまうのですが、何故か眞人はそのような行為に及ばないのです。塔屋敷には眞人の新しい母である夏子も侵入している。そして眞人の目的は、再会した母と共に異世界に残ることよりも、出会ったばかりでぎくしゃくした関係ですが、それでも新しい母のことを想いながら、塔屋敷に隠れている彼女を探して現実世界に連れ戻すことを選ぶのです。何故、ぎくしゃくして嫌がっていた夏子のことを眞人は構うようになったのか。それは次項目の中盤について2で考察したいと思います。

余談になりますが、火の異能力を持つ少女ヒミが異世界に現れたことと、現実世界で眞人の母、久子が火災事故で亡くなったことは、火というキーワードを媒介にして二人の関係性を密接に結び付けていると思います。序盤で火に包まれた母の幻覚描写が挿入されるのも同様ですね。deus ex machinaのvanillableepはこの幻覚描写に対して、幻魔大戦という漫画で表現された残留思念を重ねています。また下記YouTubeリンクでもサブカルチャー系YouTuberが我々と同じ分析を試みています。宜しければ確認してみてください。
https://youtu.be/BMfhcuggvzU

中盤について2: 異世界に籠もる新しい母、鸚哥(インコ)伽藍鳥(ペリカン)青鷺の差異

さて、序盤の現実世界から中盤の異世界へと物語が大きな転換を迎えた時に、そこに発生するカタルシスは視覚的で右脳に働きかけるものよりも言語的で左脳にインパクトを与えるものであったことを、前項の中盤について1に於いて考察しました。更に踏み込んで今項の中盤について2では、言語的な説明を介することで抽象的な異世界の脆弱性を指摘して、逆張りで異世界とは真逆の現実世界の良さを再認識するという、物語に隠された仮説について語っていきたいと思います。

改めて、主人公の眞人が塔屋敷に侵入した目的が、先に塔屋敷に侵入した新しい母親、夏子を探すことであったことが、異世界に転送された時点で、彼自身の言動からその事実が発覚します。それに対して異世界で出会った、死んだ母親の転生者でもある少女ヒミは、わたしの妹を探しているのね、妹は今、産屋に籠もって出産の準備をしていると、簡単に妹の居場所を打ち明けてしまうのです。そしてその産屋に向かう為には、今居る大海原の異世界から、背黄青鸚哥(セキセイインコ)が支配する異世界を通らなければならないと告げるのです。
この時点で、またもや簡単に、ある意味に於いてご都合主義のように、物語の舞台が変わっていきます。そこにはまるで隠し扉を開けて隠しステージに突入するゲーム感覚が存在します。今流行りのマルチバース的な世界を表現するのなら、あと少しだけSF思考を織り交ぜて、直截的にご都合主義だと言われるような作り方は避けるべきでしょう。それでもこの映画はいきなり世界を変えてしまうのです。いきなり訪れた鸚哥の世界は、鸚哥の顔をした人間体のキャラクターで埋め尽くされた不気味な世界であり、この擬人化された鸚哥は、訪れた眞人を饗すふりをして食おうとします。宮沢賢治の注文の多い料理店のように。

ここで、鳥というキーワードに対して、ちょっとした疑問が生まれます。
序盤の現実世界では青鷺が登場しました。最初はリアルな姿で普通の鳥の形態で登場して、やがて鳥なのに人間の言葉を話して、遂には口の中から擬人化された人間の禿げ親父が顔を覗かせるのです。
中盤その1の異世界の大海原では、やはりリアルな姿をした伽藍鳥(ペリカン)が大量に出現しますが、中盤その2でがらりと変わった異世界では擬人化された鸚哥キャラクターがこれでもかと変なキャラ感をアピールしていきます。
つまり青鷺、伽藍鳥、鸚哥は共に同じ鳥の仲間なのに、映画のワンシーンごとに鳥の表現方法に差異が生じているので、結果的に何故そのようなことをしたのか、その理由付けを考えてしまうのです。喩えるならいにしえの映画フラッシュ・ゴードンに登場した鷹人間や蜥蜴人間みたいに、いにしえのSF映画の箔付けとして、地球人とは違う異星人感覚を表す為に羽根を付けたり蜥蜴の被り物を被ったりした、という説明があると説得力が増すのですけどね。

……ふと思ったのですが、擬人化された鸚哥の世界はまるでステレオタイプの絵本の世界だな、と思いました。そして、以下の件を連想したのです。
物語の中で塔屋敷に籠もった大叔父は、本の読み過ぎで頭がおかしくなった、と言われています。そして塔屋敷の中には物凄い数の蔵書が収められています。J.L.ボルヘスのバベルの図書館のように。ここまで考えると大叔父が狂った原因が、塔屋敷を埋め尽くす蔵書に関係していることは最早疑う余地はありません。大叔父は物凄い数の本を読むことで、彼個人の想像力を飛躍させる修業を積むことになり、遂には想像力を増幅させて創造神の創世に匹敵する程の仮想世界を、彼個人の脳内に構築するようになったのでしょう。その上でこの脳内世界を、現実世界と見紛うばかりのリアルな肌触りを持つ異世界として、塔屋敷内にその時空間を固定することに成功したのかもしれません。それは物語で語られた、塔屋敷そのものが外宇宙から訪れたメカニカルな物体であり、そこから人智を超えた外宇宙からのオーヴァーテクノロジーが享受されて、大叔父は本を読み過ぎていたことを上手く利用して、彼個人が気に入った本に描かれていた世界を塔屋敷内に再構築する異能力を、彼は手に入れたのかもしれません。
つまり物語中盤の前半でリアルな伽藍鳥が出る異世界は、現実世界ではとある一冊の本に描かれた世界をそのままトレースした可能性があるし、中盤後半の鸚哥が擬人化された世界は、前半の伽藍鳥の世界が描かれた本とは違う本をトレースしたのかもしれない、という仮説が導けるのです。つまり異世界の世界観が映画のワンシーン毎にがらりと変わるのは、異なる種類の本を何冊も読み替える行為を映画的に体現している、現実の読書体験を映画化している、とも言えるのです。

上記の仮説を踏まえた上で、物語内で眞人が夏子を探しに行く件を考察します。
眞人の新しい母、夏子は、異世界の産屋に籠もり、出産の準備をしていました。序盤の現実世界で既に妊娠していたことを告げた女性が、何故か現実世界から姿を消して異世界に潜り込み、そこで出産を試みようとします。他の君たちはどう生きるか批評でも言われていましたが、この異世界出産の演出で想起するのは、古事記に描かれた伊佐那美が黄泉の国に堕ちて異形の雷神を産み落とす件であり、聖書に描かれたアダムの最初の妻と言われるリリスが地上を追放されて地獄に堕ちて、そこでサタンと結ばれてリリンと呼ばれる悪魔を産み落とす逸話に相似しているということです。この段階で、君たちはどう生きるかで描かれる異世界は黄泉の国または地獄という概念と同一である、という認識が成立して、現実世界とは異なる世界がオルタナティヴな状態で表裏一体で存在しているという、ある意味ではスピリチュアルで厨二病的な世界認識が、フィクショナルな物語であるという前提だからこそ、この非現実的な世界認識が有効に扱われていると捉えられます。

更に踏み込んで、この非現実的な世界に赴き出産を試みようとする女性の意識を考えてみましょう。喩えるならそれは、猫が死期が近づいたら姿を消して、人目の付かない所で死を迎えるという噂に似ていると思います。現実世界では眞人の新しい母となった夏子は、血は繋がらなくても異母子としての眞人の弟妹を産む予定でいました。それは眞人の家系である牧家の為に家族愛の結晶をこしらえるという、伝統ある家制度に従う良妻賢母の役割だとも言えました。しかし物語の序盤で、眞人は、新しい母を受け入れることができない状態でいました。物語ではそんなに描かれなかったのですが、眞人に受け入れてもらえない夏子にも精神的なプレッシャーが課せられていたはずです。マタニティブルーの精神状態にも陥っていたことでしょう。そのような状況下で、恐らく無意識のうちに、現実世界の煩わしさから逃げて、そことは違う異世界への逃避行を試みて、その場所で家族愛の結晶とは認められないものを産み落とす決意をしたのかもしれません。ここでは前述で説明した、伊佐那美とリリスが異形で悪魔と呼ばれるものを産み落とした説話と同じ心理状態が、夏子にも働いていたことになります。
それを眞人が救うのです。

deus ex machinaのvanillableepはリアルな少年時代に母の死別と新しい母との出会いを体験した理由から、フィクショナルな君たちはどう生きるかを客観視することができなかったと語ります。君たちはどう生きるかでは主人公の眞人が新しい母、夏子を受け入れる努力を始めますが、この物語と同じように少年時代のvanillableepは新しい母を救えるのか?と友人のM*A*S*Hが問えば、できないよ!と彼は即答しました。それは子どもだから自分自身が受け入れられないものを簡単に認めることができないという、極めてシンプルな理由によるものです。大人になれば受け入れることができますが、そのぶん、しがらみを我慢して苦味走ったブラックコーヒーを飲む感覚を覚えなればなりません。
君たちはどう生きるかの物語の中でも、新しい母を受け入れられない眞人はまだ子どもでした。それでも異世界の産屋に籠もった新しい母を救うことで、子どもの殻を脱ぎ捨てて大人に近づこうとします。シンプルな疑問ですが、眞人が大人になるということは、物語で描かれている異世界を冒険しているうちに成長したということになるのでしょうか? ドラえもんの映画のように? ステレオタイプな“行って帰ってくる”英雄譚を優等生的に倣っている? ……俗物的に考えると、現実世界で映画のように簡単に成長しようと思っても、そうはいかないぞ、という体験を多くの人たちがしていると思います。それでも無理してドラマチックに生きようとすると、それが事故やトラウマになる体験になってしまうから、そうなるのが嫌だから前もって予測して無難に済ませる人たちが多いと思うのです。そういう意味ではフィクショナルな英雄譚を読み、現実ではできないことを頭の中で追体験することで、ほっと胸を撫で下ろすのが関の山になっています。ぶっちゃけて言えば、それが物語の効能だと思います。
その物語の中で生きている眞人が、物語の約束事に従って強引に成長して、今まで受け入れられなかった新しい母を受け入れる演技をします。物語がこのまま進めば、新しい母は異世界の産屋で異形の赤子を産み落とすかもしれません。フィクショナルな物語として見れば、異常なストーリーもリアリズムも、どちらも有りでしょう。それでも眞人は異常な展開を選ばず、現実世界に母を連れ戻して、そこで弟妹を産んでもらうことを願うのです。
繰り返しますが、この優等生的な物語展開は何故に行われているのでしょうか? 作者の宮﨑駿がご都合主義を選び、強引に英雄譚の効能を観客に押し付けようとしているのでしょうか? それとも、別の理由が存在しているとでも言うのでしょうか?

個人的にただ一つだけ言えることは、大海原で伽藍鳥が溢れる異世界と、鸚哥が擬人化された異世界とでは、世界観が違うということです。そして私 (M*A*S*H) は前述で、大叔父が本を読み過ぎて狂ったしまったという設定から、彼は本に描かれた内容を異世界として再現する異能力を得たという仮説を導きました。その仮説に従うなら、大叔父が作り出した異世界とは、古今東西のファンタジーや児童文学、幻想文学のエッセンスが凝縮された世界になります。それは読書家にとって桃源郷であり、現実逃避をするに相応しい世界です。
それならば眞人もこの世界に触れたことにより、ここにずっと留まりたい、と思ったのでしょうか? 眞人が幼い頃から本に夢中で夢想癖のある子どもだったのなら、現実世界に嫌気が差して現実逃避をしたいと望んでいたのなら、大叔父の作った文学的な異世界に興味を示すはずです。事実、彼は母を亡くして茫然自失でいて、戦時中の国民学校に通っていても同級生から苛められていました。そして苛められた後も自傷行為で頭に石をぶつけて、更に傷を深くした後に、親には苛められたことは隠すという、ある意味、自虐的に塞ぎ込み悲劇の主人公を演じているふりが感じられました。それが眞人少年のパーソナリティであり、人間性の一面を表していると言い切ることはできますが、そのような少年が大叔父の作った文学的異世界に魅力を感じるのか?という疑問は、物語を鑑賞している段階では簡単に答えを見つけることはできませんでした。

それでも少なくとも言えることは、伽藍鳥が溢れる異世界で若返ったキリコおばあちゃんと生き返った母と出会った時も、そして鸚哥の擬人化世界に訪れた時も、眞人は見知らぬ世界に足を踏み入れた驚きを表していましたが、少なくとも眞人の目は輝いてはいなかった。私 (M*A*S*H) はそのように捉えています。
それは異世界も現実世界の延長線で、驚くべきことも怖くて慎重にならざるを得ないことも現実世界と同じように配置されている。結果的に現実世界と同じ対応を取らざる得ない状況になり、それでも異世界に留まりたいと思うだけの魅力を感じるかと言えば、そういう訳にもいかず、その心理状態から純粋に異世界への反発が起こり、それが新しい母、夏子を現実世界に連れて帰ろうとする行為に結び付いた。私 (M*A*S*H) はそのように分析しています。
つまり現実逃避でここに留まりたいと思うよりも、今、目の前で起こっていることは辛いけど、そこから逃げるんじゃなくて自分の手で解決したい、という欲求が、眞人の中で芽生えていった。本に描かれた世界に浸りたい文学青年的な欲望ではなく、それとは違うことを求めたい。ぶっちゃけて言えば、非モテよりもリア充に近づきたい。それが今まで嫌がっていたけど、何とかして新しい母を受け入れようとした眞人の、母を救う理由に繋がるのです。

ここに挙げたことは私 (M*A*S*H) の仮説ですが、ご都合主義的に眞人が心変わりしたと言い切るよりも、非現実的な異世界に触れ続けていても客観的に見て眞人に大胆な変化(成長)が感じられなかったのと、何よりも異世界の世界観がジブリの原液で既視感があり優等生的過ぎたのが、結果的に眞人は異世界に魅力を感じなかったという大胆な仮説を導きました。
この仮説を元にして、次項目で君たちはどう生きるかの終盤部分を考察して、批評の幕を閉じたいと思います。

終盤について: 崩壊する塔屋敷、現実世界への帰還、そこにカタルシスは?

異世界(塔屋敷)の最上階で大叔父が眞人を待っていました。大叔父は言いました。十三個の石を積み上げることで異世界を保つ役割を担って欲しい、自分の跡継ぎとしてここに残って欲しい、ということを眞人に告げました。
しかし、眞人は石を積み上げることを拒否しました。そして前述で考察した通りに、新しい母を現実世界に連れて帰ることを、大叔父の目前で話したのです。この時点で眞人の心の内には、異世界に対する未練が微塵も残っていないことが伺い知れます。
その代わりに鸚哥の世界の王が、大叔父と眞人の間に割り込み、眞人の代わりに石を積み上げてしまいます。それはとても乱雑な積み方だったので、石はバランスを崩してあっと言う間に崩落してしまいます。それか合図となって、異世界も崩壊を始めるのです。

鸚哥の王の気持ちは理解できます。たとえ大叔父が創造した世界であっても、創造神の気まぐれで鸚哥の世界をリセットして消滅させるということは、絶対に阻止したかった。それは異世界の中で生き続けた生き物に芽生えた自我であり、生存本能の発露だったのでしょう。
鸚哥の世界だけではありません。伽藍鳥の世界にも業があり、しがらみがありました。わらわらという絵に描いた無邪気を表している生き物を捕食する為に、伽藍鳥は異世界での存在を許されました。わらわらは無抵抗で食べられるのですが、伽藍鳥の捕食の度が過ぎないように、異能力少女ヒミが伽藍鳥を燃やしていきます。異世界の食物連鎖とも言える非情な状況に、眞人はヒミに向かって、火を放つのは止めろ、と叫びます。眞人の目前に焼かれた伽藍鳥が落下していきます。瀕死の状態で伽藍鳥は無念の想いを眞人に告げます。そして眞人は死んだ伽藍鳥を弔うのです。
異世界でこのような体験をしているのに、異世界に棲む者のそれぞれのしがらみを感じているのに、それでも眞人は異世界に憐れみを抱かず、彼らの世界を存続させる為に大叔父の跡を継ぐ、ということさえも拒否したのです。眞人は非情なのでしょうか?

眞人が選ぼうとしたのは、“閉塞的な現実世界”と“魅力的ではない異世界”の、どちらかの一方を選ぶことだったのかもしれません。それは下品に喩えると、“カレー味のウンコ”と“ウンコ味のカレー”の、どちらかの一方を選ぶことに似ているかもしれません。ジブリアニメに下品は似合いませんが、千と千尋の神隠しに登場したオクサレ様の一例もあるので、美味しいジブリ飯を食べたあとは食べたものが出るところまで考えるのが、健康的なジブリ思考だと思うのです。
……という訳でウンコのことを考えます。常識的に考えると人間はウンコを食べられません(そのような性癖を持つ人はいますが、それは置いときます)。つまり排泄物で腐敗しているものを吸収すると、身体を壊すということを、常識的な人は身をもって知っているのです。だから幾らカレーの味がしてもストロベリー味になっても、ウンコはウンコだから、食べたらお腹を壊します。
そこでウンコの味がしてもカレーという食品なら食べられる、というポジティブな発想に至るのが、常識人の常識人たる所以となるでしょう。但し正直に言えばウンコの味なんて具体的にどんなものなのかは、わかりませんよね。ウンコのような匂いがして腐敗ではなく発酵している食品であれば、シュールストレミングが良いかもしれません。それは知る人ぞ知るスウェーデン国のソウルフードで、鰊を酢漬けにした状態で更に缶詰加工を施して、缶の中で年代物のワインのように熟成させる、濃厚な神々の糧であるとも言える食品です。同じ発酵食品なら我が国日本の納豆や隣国の朝鮮半島の国々の沈菜김치もソフトな食感で食べやすいですよね。
つまり何が言いたいのかと言うと、君たちはどう生きるかの物語の終盤で、眞人は悪食の道を選んだ、ということになります。見た目は食べ慣れたもののように擬態していても中身は毒である異世界の正体を見抜いて、それとは違うものを、見た目は悪いけど食べてみたら意外とイケる味がした現実世界の別側面に、眞人は気づいたのです。
それでも今までジブリアニメに親しんできた観客は、ウンコ味という喩えで斜に構えた調理方法で作ったものでなく、ジブリ飯として美味しそうに見えるカレーを作って欲しい、と懇願するでしょう。だがしかし、シェフの宮﨑駿は、常連客の要望を拒んだのです。そのことが、君たちはどう生きるかに関する賛否両論に繋がっているのではないでしょうか。

そして物語は、あっと言う間に幕を閉じます。眞人が大叔父の跡を継がないと言っただけで、鸚哥の王が乱雑に石を積み上げてそれが崩れ落ちただけで、物語中盤の全てを占めていた異世界の様相は、もう二度と再生ができないくらいに破壊されるのです。それは古代ギリシアから伝わる作劇法デウス・エクス・マキナのように、機械仕掛けの神が舞台に突然現れて、話の流れを無視してでも強引に幕引きをするようなものです。それはあまりにも急な展開なので、カタルシスを感じる暇もありません。

そういう意味ではこの物語終盤の演出は、アレハンドロ・ホドロフスキー監督が撮った映画、ホーリー・マウンテンのラストシーンに似ています。ホドロフスキー監督は知る人ぞ知るカルト・ムービーの旗手と言われています。1960年代に流行したサイケデリック・ムーブメントの精神性を大胆に取り入れた非合法ドラッグ服用で得れる幻覚映像を主体としながらも、黒魔術等の世界全土をクロスカルチュラルに網羅した神秘思想を織り交ぜて、更にはポルノグラフィ、グロテスク、身体的且つ精神的異形のフリークス要素等を多様性のメルティング・ポット状態で混淆したのがホドロフスー映画の特徴になります。前述で紹介したアンドレイ・タルコフスキー監督の映画とは真逆ですね。脳内からα波が出るよりも、アドレナリンやドーパミンやエンドルフィンが溢れまくるのがホドロフスキー映画なのです。
そしてホーリー・マウンテンという映画について簡単に説明すると、聖なる山に登って頂上に棲む賢者を倒して不死を得る、という概要の、ある意味では冒険ファンタジー映画とでも言える内容になっています。でも、そんなストーリーは実はどーでもよくて、主人公のイエス・キリストの偽物のような青年が、その師匠の錬金術師(監督のホドロフスキーが演じる)と出会うことによって、異様な儀式イニシエーションのてんこ盛りで血と臓物と精液と愛液の変態性欲の最中に拷問と殺害と死が跋扈し排泄物は黄金に変わるソドム百二十日的な地獄絵図が繰り返されます。物語の途中で聖なる山を目指す七人の賢者が登場しますが、それも物語がどーでもよくなるくらいに七人の賢者の説明を、奴隷商人的な女性差別と死の商人が扱う狂気と芸術とポルノグラフィと玩具で子どもを洗脳することと政治家の喜劇とファシズムのエンターテインメントと棺桶カリカチュアで断片的な描写を矢継ぎ早に繋げて辻褄が合わなくなるまでやり続けるのです。で、一応聖なる山に登ることになるのですが、七人の賢者は幻覚を見まくり生肉を食らい黄金の雨に打たれて殺し合い交尾して愛液が迸りペニスを切り取られて毒虫が身体中に這い回り両性具有者に犯されるのです。
この映画は全編に渡ってこんな無茶苦茶をやっているのですが、それがラストシーンになると、聖なる山に登っても不死は得られない、全部嘘だ、これは映画だ、現実に帰ろう、と言って、監督は撮影中の大道具をひっくり返して、その光景をカメラがトラックダウンで引きながら撮影するところで終わるのです。
当然、こんなラストシーンにカタルシスはありません。まあでもホーリー・マウンテン自体が全編インパクトがあり過ぎるので、ラストが肩透かしを食らわせるものでもある種の効果は出るとは思います。そしてこのホーリー・マウンテンに、君たちはどう生きるかは似ていると、私 (M*A*S*H) は思うのです。

過去の児童文学及び幻想文学のエッセンスを凝縮させたような異世界が、映画の中で延々と描かれていきます。僅かに漫画映画的な爽快感も加味されていますが、過去の宮崎駿作品に見られた圧倒的な絶頂感覚はそこにはありません。
このような文学作品をシミュレートした異世界の滞在を経て、主人公の少年は、もうこの世界には留まれないという宣言をします。既視感のある異世界よりも、ぎこちなくて生き辛いが、それでも異世界に比べるとまだ可能性が残っている現実世界への帰還を宣言します。
そして現実世界に戻った瞬間に、今まで異世界で起こっていたことが全て、無になるのです。異世界で出会った鸚哥人間は、現実世界ではリアルなセキセイインコの姿になり、主人公の母親はかわいいと絶賛しますがインコの糞まみれになってしまいます。
異世界で夢を見るように冒険して試練を乗り越えてきましたが、目が覚めれば全て忘れてしまうほどの儚さがそこにありました。めちゃくちゃ面白くて心にずっと残るというものが、そこには存在しませんでした。
感動を求める観客に冷水をかけて意図的に虚無感を味わせて、ショーペンハウアー的なペシミズムを強引に押し付ける。映画を二時間観る苦行を味わせた後に、過去の宮崎駿作品の漫画映画的な爽快感を今でも求めてはだめだと冷徹に観客を突き放す。
現実を知ろう、現実を受け入れよ。これがこの映画の主題だと思います。
スタジオジブリのエンターテインメントの殻を身に纏った、アイロニカルな教養主義映画が、君たちはどう生きるかの正体なのかもしれません。

映画を終えて: 理想のあるべきものは変わっていく

以上をもってポエトリー・リーディング・ユニットdeus ex machinaのvanillableep & M*A*S*Hの、君たちはどう生きるか批評を終わりにしたいと思います。前述冒頭でvanillableepは映画と自分自身の人生を重ねるリアルな意見を述べて、M*A*S*Hは実験映画としてこの映画を楽しみました。これらの意見には良いところもありますが、疑問に思うところもあります。そこでM*A*S*Hはvanillableepの意見を発展させて、映画の中で眞人が夏子を救う理由を、このnoteの記事で掘り下げてみました。
例えば眞人が夏子を救う動機については、M*A*S*Hは前述の通りに、眞人は異世界への反発から、異世界に籠もる母に向かって、ここに居てはだめだ、と叱咤するくらいの気持ちで彼女に接する、と分析します。
それに対して下記YouTubeリンクでは映画系YouTuberが異なる見解を示しています。吉野源三郎の著書、君たちはどう生きるかを眞人が劇中で読むことで、心変わりが起こり、今まで嫌がっていた夏子に対して勇気を持って接するようになる、と分析しています。
https://youtu.be/Mtgra3hSjxA
しかしながらvanillableepは、映画と同タイトルの書物が劇中に登場して、主人公がそれを読み涙を流すシーンが挿入されたとしても、俺はそこに意味を見出せなかった、と看破します。君たちはどう生きるかという映画の題名についても、映画が題名通りの問いを発している訳ではなく、その答えを提示している訳でもない。映画の内容と題名が無関係な状態だから、映画を観て戸惑う者が現れているのではないか、と持論を続けます。

また下記Spotifyリンクのポッドキャストでは、語り手の宮台真司が宮﨑駿と対談したことを語り、宮﨑駿を批判して怒らせた上で、僕はリアル/現実には関心がない、そこにあるべきものに関心がある、という言葉を宮﨑駿から引き出したことを語ります。
https://open.spotify.com/episode/4xGXylLnzLFhqa9ug6oejH
ここで扱われる“べき”という古語の助動詞は“当然だ”という強い意志を持ち、主観も強いので、それを言う人の頭の中を覗きたくなってきます。そういう意味では前述の“べき論”を唱える宮﨑駿は、前々述で異世界よりも現実がいいと分析したM*A*S*Hと意見が食い違ってきます。M*A*S*Hも怒られるかもしれません。
ただ、そこにあるべきものとは絶対に異世界であらねばならない、とは言えません。現実世界が異世界のように地に足が着かなくなり、異世界が現実世界のように生活に密着する状況も生まれる可能性があるからです。

宮﨑駿が岩波少年文庫を語る新書版『本へのとびら――岩波少年文庫を語る』では、「風が吹き始めました。この風はさわやかな風ではありません。恐ろしく轟々と吹き抜ける風です。死を含み、毒を含む風です。人生を根こそぎにしようという風です。」と記されている箇所があり、更に「今ファンタジーを僕らはつくれません」と続いていきます。
この言葉を額面通りに受け取れば、宮﨑駿は関心のない現実から逃避して、あるべきものである理想のファンタジーをつくることが、今はあまりにも現実が毒々しいので、打ちのめされている、という風に捉えられます。そしてこの言葉がずっと、君たちはどう生きるかに纏わり付いています。理想のあるべきものは、時代と共に変わっていく。この言葉を最後にして、この批評を終わらせたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

おまけ: M*A*S*Hがジブリで働いていた頃(有料コンテンツ)

これ、有料にします。
見出し通りに私が昔アニメーターで下っ端動画マンだった頃に、その下っ端目線で、当時の雲の上の存在だった宮﨑駿さんのことを思い出しながら書いていこうと思います。興味がなかったら読まなくても大丈夫ですよ。

ここから先は

3,674字

¥ 100

この記事が参加している募集

スキしてみて

映画感想文