手紙18:中村翔子さま「人文科学と自然科学の横断」一條宣好より(2022年6月19日)
中村翔子さま
2022年6月19日(日)晴れ時々曇り
私が住んでいる山梨県甲斐市は、県庁所在地である甲府市のすぐ隣に位置
しています。「住みごこち」について意見は様々あると思いますが、私と
しては都会的な要素と自然豊かな側面がバランスよく共存していて、なか
なか魅力的な場所ではないかと感じます。
ちょうど今は田植えがほぼ終わった季節。配達でまわっているエリアや店
の周辺には、現在でも田んぼが結構見られます。そして田んぼや民家を飛
び回っているツバメ。今回のお便りは可愛らしい鳴き声のツバメのことか
ら始めましょう。あとで南方熊楠「燕石考」につながる予定です。
中村さんから前回頂いたお便りには、動物学者だった平岩米吉が主宰した
雑誌『動物文学』に関する資料が駒場の日本近代文学館に収蔵されたとい
う情報がありました。
その中には、雑誌に寄稿された南方熊楠執筆の「タクラタといふ異獣」直
筆原稿も含まれていたのですね。全く知らなかったのでびっくりしました。
ご教示ありがとうございました。
「タクラタといふ異獣」は平凡社版『南方熊楠全集 5巻』に収録されて
います。改めて読んでみるとなかなか面白い内容。子供のころからなのか
どうかはわかりませんが、熊楠は「ちょっと変わったこと」に強く反応す
るタイプなのですね。文献で見た「タクラタ」という言葉を以前から気に
していて、熊楠は動物名の「ラクダ」が元になっているのだろうと考えた
そうです(アナグラムのような…。熊楠は他でも似た感じの類推を行って
います。例えば「ムケカラ宗」という短文。これは戦国時代の文献『妙法
寺記』の記述に疑問を呈したもので「ムケカラ宗」は前後の文章から一向
宗のことに相違ないが「ムケカラ」とはどういう意味なのか、という問い
かけです。熊楠は「ムケ」から「剥け」を連想したようで、イエズス会宣
教師などの頭頂部を剃った髪型「トンシュール」に言及し「一向宗をムケ
カラ宗と言ったのも、何か頭の剃りように由ったのではなかろうか」と書
いています。なお、この件は「ムケカウ宗」=無け光宗の誤転写、誤読だ
ろうということで現在は研究上の決着が一応ついていますが、熊楠の飛躍
する発想力を示す好例だと思います)。のちに他の資料を見たら「麝香に
似たる物」と書かれていました。そこで今度は言語学的な考察から離れ
て、実際はどんな動物だったと考えられるのかを探究するのです。
南方熊楠は「博物学者」と紹介されることが多いですね。私見だとその定
義には少々幅があるようですが、私は「人文科学」と「自然科学」の両方
を対象にする存在と認識しています。この双方の領域を自在に往来してダ
イナミックな考察を行うところが、熊楠の大きな魅力のひとつではないで
しょうか。
そうした魅力を持つ著作の代表例が「燕石考」でしょう。英文で書かれて
イギリスの雑誌に投稿されたものの掲載されず、込み入った事情から熊楠
生前は日本語での発表もされなかった不幸な論考。しかし現在では高く評
価され、原稿の成立に関しても研究が進められています。
燕の巣に存在するといわれる伝説的な石が「燕石」です。その伝承は世界的に分布していて、安産に効能があり眼病の治癒に役立つとされています。この「燕石」について熊楠は「人文科学」と「自然科学」などというカテゴライズを軽々と飛び越え、対象に迫っていくのです。使用する資料は欧米のものが多数含まれますが(英語などで報告されたアジアの事例もあります)、探究の足取りは江戸時代の本草学者、訓詁学者に近いかもしれません(これは既に指摘されています)。
「燕石考」については中沢新一さんの卓越した読解があります。私が大学生の時、1991年に河出文庫から熊楠の著述をテーマ別に編集した「南方熊楠コレクション」全5巻の刊行が始まりました(先年刊行された安藤礼二さんの『熊楠 生命と霊性』を読んで、シリーズの企画者が安藤さんだったことを初めて知りました)。この年は熊楠の没後50年に当たり、世間の注目と関心はかなり熱いものだったと記憶しています。そしてシリーズ各巻の「解題」を担当されたのが中沢さんでした。私は高校生の頃に『悪党的思考』を読んで以来、中沢さんのファンだったので南方熊楠×中沢新一の時空を越えたコンビネーションに大きな喜びを感じました。
シリーズ2冊目の『南方民俗学』が刊行されたのは1991年6月。ちょうど今くらい、ツバメの飛ぶ季節でした。本の冒頭に置かれた中沢さんの「解題」には「燕石考」で熊楠が取り扱った主題について現代の知見から再考してみるという試みがあり、興奮させられました。現在は更なる推敲を経て再構成された内容が中沢新一さんの『森のバロック』(講談社学術文庫)に収められています(この本に関しては「手紙16」でも触れました)。たくさんの方に手に取って頂きたい一冊です。さて、書店員である私のメインの仕事は、雑誌の定期購読をしてくださるお客様のところへ配達をすることです。今の時期、お届け先の軒先にはツバメが巣を作っていることが多いです。ツバメの親は本当に勤勉(という表現で良いのかな?)で、私がお客様とほんの少し言葉を交わす間にも、巣へ何回か餌を運んできたりします。そんなツバメの姿を見ると「燕石考」のことが思い出され、きっと生前はツバメの姿にやわらかな視線を送っていたであろう熊楠のことが偲ばれるのです。
いつもSNSで中村さんの活躍を拝見しています。テレビでも紹介された「えんぎやど」、最近盛んに企画されている落語会などのイベント…毎日動画で投稿される中村さんの「歩く姿」が、中村さんの仕事への姿勢を象徴しているように感じられます。「up standing」ってこういうことを言うんだろうなと思ったりして、いつも背中を押してもらっています。ありがとうございます!これから夏本番ですね。一層お元気で。
一條宣好
【往復書簡メンバープロフィール】
一條宣好(いちじょう・のぶよし)
敷島書房店主、郷土史研究家。
1972年山梨生まれ。小書店を営む両親のもとで手伝いをしながら成長。幼少時に体験した民話絵本の読み聞かせで昔話に興味を持ち、学生時代は民俗学を専攻。卒業後は都内での書店勤務を経て、2008年故郷へ戻り店を受け継ぐ。山梨郷土研究会、南方熊楠研究会などに所属。書店経営のかたわら郷土史や南方熊楠に関する研究、執筆を行っている。読んで書いて考えて、明日へ向かって生きていきたいと願う。ボブ・ディランを愛聴。
中村翔子(なかむら・しょうこ)
本屋しゃん/フリーランス企画家・文筆
「本好きとアート好きって繋がれると思うの」そんな思いを軸に、さまざまな文化を「つなぐ」企画や選書をしかける。書店と図書館でイベント企画・アートコンシェルジュ・広報を経て2019年春に「本屋しゃん」宣言。千葉市美術館 ミュージアムショップ BATICAの本棚担当、季刊誌『tattva』トリメガ研究所連載担当、谷中の旅館 澤の屋でのアートプロジェクト企画、落語会の企画など。下北沢のBOOKSHOP TRAVELLRとECで「本屋しゃんの本屋さん」運営中。新潟出身、バナナが大好き。
【2人をつないだ本】
『街灯りとしての本屋―11書店に聞く、お店のはじめ方・つづけ方』
著:田中佳祐
構成:竹田信哉
出版社:雷鳥社
www.raichosha.co.jp
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