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スポーツはすべての人々が享受すべき基本的人権である


スポーツは 身体的活動と精神的活動がともに行われることによって 自らの身体的能力と肉体的能力を洗練・変化・発展させるものです。競技技術の獲得とそれに必要な意思力を鍛錬し 個人の潜在的可能性を発展させることができます。同時に「競争」を通じて ルールや自己制御のもとお互いを高めあうことができます。

戦前の日本では スポーツを行うための「金」「暇」「場所」の客観的条件をそろえることは難しいことでした。戦後 スポーツ・フォア・オールを背景に 日本のスポーツも「見るスポーツ」が中心であったものが「やるスポーツ」へ変化していきました。より多くの参加者がスポーツを楽しみ行うという「質」と いかに多くの人が参加したかという「量」の問題を考えることができる現在はスポーツ=社会体育が発展してきたと言えます。

スポーツが生活の中に芽生え 発展してきた現在 世間にスポーツを何か実際とは違う 特別・美しいもの と捉えたがる向きが強いと感じています。スポーツ報道は特に 美化・美談や賞賛・感動の物語にあふれています。オリンピックやW杯などの国際的な大会でのスポーツ選手の活躍が 国民を喜ばせ 感動させてくれる。いつからかこの傾向が強くなりました。その理由のひとつには スポーツに 国威発揚や商業的利用価値を見出し 認識されたこと。もうひとつには  日本の多くのスポーツ組織・団体が 財政的自立度が低い中で 国際大会等に参加しなければならない現状があること。国際大会等に参加するほど遠征費用等活動費はかさむため  どこか(国やスポンサー)に寄生せざるを得ません。こうしてスポーツそのものの性格や価値が変質し 感動の押し売りを容赦するようになってしまいました。

スポーツは感動するために見るものではありません。 スポーツは誰かを感動させるためにするものではありません。スポーツは時に感動するものです。

競技スポーツ選手にとっては スポーツの商業化によって スポーツが「個人」の楽しみの次元から かなり遠ざかってしまったのではないかと思っています。 財政事情とスポーツの継続のためには  私=個人の「楽しみ」や「喜び」「目標」を犠牲にして 「やらせてもらう」という形に変わってしまった気がします。「日本のために」「郷土のために」「母校のために」行う日本のスポーツ気質は 滅私奉公そのもので伝統化してしまいました。「公」「お上」の前に「私」が我慢しているようで 残念でなりません。

「感動の押し売り」の中に 勝負への執着そのものを美化することで 「勝利至上主義」と「根性主義」を正当化していることがあります。それは 少数精鋭・英才中心の指導法だったり 怪我や身内の死といった困難や苦難にめげず  努力し続け 立ち上がる選手の姿を描き 何が何でも勝利しようとする 勝たせようとする光景だったり 「根性論」を競技に対する心構えや姿勢と結びつけて「勝負師」に作り変えてしまうことです。テレビで放映されるこの物語に大人も子供も知らぬまに影響を受けています。場合によっては この物語が 胡散臭く多くの人達をスポーツから遠ざけていることも考えられます。

「スポーツはすべての人々が享受すべき基本的人権である」                                 

2020東京オリンピックは延期となり 来年度の開催も現時点では不確かです。そのような中 プレイヤーズ・ファースト、アスリート・ファーストという言葉の前に オリンピズム(スポーツを通した生き方の哲学)やスポーツ・フォア・オール の背景に興味を持ってみませんか。

「ちょっとやってみようかな、マネしてみようかな」というところからカラダの使い方に興味をもってもらえれば嬉しいです。