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最近考えたこと(子育てでいちばん大事なことは。)

自分はきわめて楽観的な人間なので(歳を取ってから気づいた)
育児に関してもそうで、端的にいえば、子供時代の時間をどう(親が、半強制的に)「過ごさせたか」ではなく、子供が子供時間をどう過ごしたかだと思ってるし(その時間の過ごし方が、親が気にくわないものだったとしても)

それどころか、親が子供にどれだけ贅沢な(有り余る時間)を与えたかどうかで決まると確信している。
「こう過ごしなさい」と指示した時間は時間を与えたとはいわない。

子供に贅沢な時間を与え、その後のことは問わないといっている。親が覚悟して贅沢な時間をどんだけ与えたかがすべてだと思ってるわけ。

贅沢な時間はなぜ贅沢か。それは「安全安心」とセットになっているから。不安を感じさせないこと。衣装住が満たされているのはデフォで、あとは精神的安心感が前提の時間を与えること。
精神的安心感を与えるのは(口でいうのは)簡単で、夫婦円満なこと。これに尽きる。(なるべく、ね💦)
「夫婦でない形態」なのであればそれでもよい。家の中に安心が充満していればそれでよい。

家で、「そこにいる」だけでヒステリックに叱られるようなことがないこと。そういうことが積み重なると、子供は不安になる。

最初はどの親も、生きていてくれさえすればよい、だったはずなのに、それがいつのまにか健やかに生きていることが二の次になる。よって健やかに生きているのに家庭内で叱られることになる。

これが問題。


なんかさー、育児論で、本物を見させろとか本物を食べさせろとか、いうじゃない?
だったら本物の時間(完全な自由時間)与えたらいいんじゃね?と思うのですが、いかがでしょうか?
そしたら、親に自由な時間を与えてもらったという子供時代の事実は残る。

前も書いたけど、親に強制的に習い事させられて、でも今はそれに感謝しています、とかそういうインタビューをたまに聞くことがある。でもそれってその分野の成功者だけの話で、星の数ほどいる凡人はそうは思ってないからね。

多くの人(世の中の親御さん)が感じてるとおり、贅沢な時間を与えることは一種の賭けでもある。でも前提として、子育ては単なる運ゲーなのである。それを認めたがらない人は多いかな。

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