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27 なぜ人は集ストに惹かれるのか? あなたを試す甘いワナ


もしあなたが集スト被害に遭うと、毎日のように信じがたい光景を見ることなるでしょう。
例えばこんなケース。 車を降りてスーパ一の入り口に向かうと、横から中年女性がかけてきて私の視界正面に踊りこみ、眼前で頭さわりを見せつけます。 安心して買い物もできないのです。

私の町では炎上中期から、 一般市民も ネットの集スト手法に夢中になりました。 人々は炎上して有名になった一市民を追いまわし、侮辱や嘲笑をし、ストーカー共通ポーズを見せつけ、ひどい時には監視ほのめかしや情報ぬきほのめかしまでしました。

私はこの10年、 どうしても集ストをせずにはいられない、 多くの市民を見てきました。 1日の被害数に外出日数をかけると被害は10数万件。あくまで体感ですが 、関与者は千人単位に上ると考えられます。

おかしいですよね?
ネット民の間では、集ストは陰謀論が被害妄想の産物とされています。
しかしこの町では、多くの市民が実際にネットの風変わりな集スト手法を日常的に使っているのです。 これだけ実態があるのに、なぜ陰謀論あつかいなのでしょう。

ところで疑問に思いませんか ?
なぜ当案件では、普通の市民が、集ストに夢中になったのでしょうか?

群集心理?

いいえ。

違います。 群集心理だけではないのです。

そもそも、集スト手法体系そのものが、 人心をそそるようにできているのです。

非常に厄介なことです。 集ストに参加した一般市民は、おそらく集ストのこの性質に気がついていません。自分が魅惑されているのに気がつかないまま、衝動的に手を出しているのです。

今日は、なぜ私の案件で市民が集ストに夢中になったのか、その訳をご紹介したいと思います。


いじめ好きと心のすきま

現代は生きづらい時代です。 生活環境に恵まれ、 便利な機器を手にし、 世界の情報にリアルタイムでアクセスできるようになっても、私たちは新しい時代の新しい問題に悩まされています。
世界中の情報にアクセスできるようになったということは、格差が拡大している時代に、その差をSNSなどで視覚情報として見せつけられることを意味しています。

生活の差、収入の差、 労働環境の差、能力や知識量の差。これらを見せつけられるのは、とてもつらいことです。 もし自分の仕事や人生がうまくいってないならば、なおさらのことです。

今はコロナ禍ですし、 つらい環境におられる方もいらっしゃるのではないかと思います。 便利になっても何
かしら生きづらい世の中、自己肯定感も、自己効力感もガスガス下がります。

自分はもうちょっと出来るはずでは。 もっとましな人生があったのでは。 だれでも
そんな風に思う瞬間があるのではないでしょうか。
このような心のすきまがある時に、 近寄ってくる誘惑があります。

「他者支配」です。

いじめは、手っ取り早く人生のコントロール感を持たせてくれます。自分の人生は思うようにならないけれど、だれかを支配すれば、自分のおそれや不安を見ないで済むようになるのです。

残念ながら、どんなすばらしい人でも、この誘惑から逃れることはむつかしいでしょう。 人間は社会的動物です。 職場や地域や家庭の中で、他者とせめぎあい生きている。その際閉鎖空間で力関係が生じれば、人はいじめをしてしまうのです。

共感、誠実、理性。もちろん人間にはよいところもたくさんあります。 その一方で、生まれつき他者を支配したり人のダメージを喜ぶようできているのです。 生得的な欲求はどうしようもありません。 ですからついいじめをしてしまったからといって、その人が特に悪人だった訳ではないのです。

普通の人々が集ストに手を出すのは、人間がそもそもいじめを好むようにできているためなのです。


直感的に低リスクと効果がわかるから

普通の市民が集ストに手を出すもう一つの大きな要因は、集ストが、直感的に低リスクと判断できるためです。この低リスクの要素は複数あります。低リスクを呼ぶ各要素が補完しあい、集ストいじめが完成度の高い手法体系になっているのです。

私が各方面にあらかじめ周知を徹底したのも、集ストの害と大きさゆえです。念のため申し上げておきますが、当ブログで情報公開にあたり、事前に各方面に案件の詳細を周知してあります。関係先は集ストの実例を把握しており、今後は集ストは自由に行えなくなるでしょう。

では低リスク要素を見てまいります。


非言語的シグナル手法

厄介なことにネットの集スト手法は、非言語シグナルを多用します。 特に共通しぐさのアンカリングは、口調などの周辺言語や、日常的なしぐさに意味を持たせ、 ストーカーの目印にしています。日常的なしぐさを野球のサインのようにして使うため、加害者には直感的に言い逃れしやすいとわかるのです。

このノンバーバル手法は、 人間が成長する過程でだれもが習得します。その意味する感情や意図が、直感的に伝わりやすいという特徴をもっています。

人間は話している内容よりも、バカにした目つきや、 イヤミな口調、侮辱的な嘲笑に反応します。非言語シグナルは、言葉の内容よりも 相
手の意図や感情をより直接的につたえる伝達方式なのです。

この非言語シグナル手法は、集ストの特徴となる手法です。集ストでは脱法目的で意図的に使われます。 言質を取らせず、いじめをするには有利な手法なのです。
言語化し、マニュアル化し、意図的に使うのは、害を増幅させます。元々非言語シグナルはいじめではよく使われるやり口なのですが、マニュアル化し、人の意識にのせ、計画的に徹底的に使うことで化学反応が起きます。飛躍的に害が増幅するのです。

ネットの集ストマニュアルのタチの悪さは、伝播と教唆の役割を果たしている点です。



不特定多数のモビング

不特定多数での集団つつき行動も、直感的に低リスクとわかります。 多くの人間の参加で、自分という個人が追及されにくくなるのです。 もし自分が被害者と面識がなければ、一層安心です。 参加者同士が知人でなければ、ますますリスクは低くなります。
犯罪グループでない一般市民も、このように瞬時に自分の低リスク計算して参加しています。

現代市民のネットワーク運動
こうした面識ない不特定多数の組織性は、 現代的なものです。 市民はネットやデバイスを手にし、不特定多数とリアルタイムで連携をとれる環境生まれました。この連携可能な環境が、市民による積極的なネットワーク運動や犯罪を生みだしたのです。

具体例としては、特殊詐欺や盗撮コミュニティーなどのネットワーク犯罪や、 民主化デモが挙げられます。現代 市民は民主化デモやネットワーク犯罪を行う際に、たがいに面識がない方が低リスクと理解しています。香港デモやタイのデモのように、意図的にたがいが知り合わないようにします。行動では連携しながら密集と離散をくりかえすのです。

この意図的な不特定の連携は、私のケースでも日常的に見られました。 市民が意図的に不特定多数の嫌がらせや運動の状況作るのは、リスク回避という現代的な特徴なんですね。

念のため申し上げておきますが、 私は市民のデモに反対する立場でありません。市民のデモは、 自身の権利を侵害する権力に対して行うものです。 暴力や破壊をともなわないかぎり、正当性があります。

私がここで言いたいのは、 現代市民が集団行動をする際に、リスク回避で 意図的に不特定多数の形態をとるという特徴です。意図的な集団匿名行動は、過去に類似の例があったでしょう。しかし現代では、ネットやデバイスによってより機動的に、効果的に行えるようになっているという話なのです。

日本では、通信の秘密が国民の権利であり、市民は自身の水面下での連携が簡単には暴かれないとも承知しています。そういう意味では、自身の権利が低リスク判断の要素になっているとも言えるでしょう。



情報汚染


ネットの集スト界隈の情報汚染も、市民の低リスク判断の要素です。集スト界隈はイメージが悪い。市民だけではなく公的機関や専門家にも、陰謀論や被害妄想との決めつけがあります。そのため市民は集スト案件なら、事件化しないと低リスク判断をするのです。

世間や専門家が決めつけを行うのもしかたないと言えば仕方がない。なにしろ過去の有名事件の検索も不可能なほどの汚染状況です。陰謀論は市民の関心をそらす効果があり、世間の決めつけに悪意があるとは言えません。
また情報汚染に影響を受けた被害者が、被害を訴える。このことが集ストのイメージ悪化に拍車をかける点も見逃してはなりません。私にも多少覚えがあります。しかしそれは被害を訴える人のせいではないでしょう。

このブログでは何度も言及していますが、組織的嫌がらせは戦後くりかえされた社会現象です。かつてはヤクザが汚れ仕事として行ったり、複数の宗教が行い、社会問題化もしています。事件化した案件もありますし、裁判で敗訴したケースもあります。陰謀論でも被害妄想の産物でもなく、実際に存在する社会現象なのです。

このどこの国でも起こりそうな組織的嫌がらせが、日本社会で陰謀論や被害妄想の産物として扱われる。その原因は、集スト界隈の情報汚染や、ここ10年の暴発事件の印象のためなのです。

問題は情報汚染であり、社会が無自覚のまま決めつけを行っている状況にあります。情報汚染を認知し、集スト案件の問題化を進めれば、この状況は改善します。


報道タブー


日本では集スト案件の報道は忌避されています。特にこの15年は少ないようです。この報道されない状況が、市民の集スト実行の後押しになるのです。

報道されない理由は主に2つ。情報汚染や調査の難しさが影響し、報道側に無意識の決めつけがあるためと思われます。

集スト案件が報道されないもう1つの理由は、既得者案件や創価案件への報道自己規制です。

従来からレベルの高い組織的嫌がらせは、権力や資金力のある既得者トラブルや一部宗教案件のイメージがありました。きとくしゃあんけんや宗教案件となりますと、せいじ的にセンシティブだったり、メディアの縁故者であることから、報道されないという状況が発生しました。

集スト案件がタブー視され、報道されない。この状況は、市民にとって低リスク判断の材料となります。集スト報道がないことが、集ストの一般化や高度化の原因となったのです。

ただこの15年、集スト報道がない点については、ネットやデバイスの普及や脱法手法の導入により、集スト案件そのものの調査報道が難しくなっているという点は考慮に入れなければならないでしょう。


有名事件が成功体験


オリンパス内部告発事件や、公明党最高顧問矢野氏の黒い手帳事件、元愛媛県警仙波氏の裏金告発事件以降、15年組織的嫌がらせを追求したまとまった報道はないようです。

しかしその15年の間に、民間でモビングによる暴発と見られる事件が相次ぎました。マツダ事件、奈良の騒音おばさん事件、山口放課殺人事件などです。

これらの事件は閉鎖空間での執拗ないじめが原因と見られます。しかしイジメ被害者が暴発し、事件を起こしてしまったため、事件以前のモビングとの因果関係が十分に検討されないまま、被害妄想案件として処理されてしまいました。

この集スト被害者が暴発で自滅したという複数のケースは、集ストを好むヤンキー層や汚れ仕事を行う界隈に成功体験を与えたと考えられます。実際私のケースやネットの集スト情報では、暴発モビングで被害者葬り去りの考えがつぶやかれています。暴発ねらいの一発逆転は、現代市民の集ストを支える概念なのです。

私は閲覧先ほのめかし投稿で、「絶対に勝てる方法なのに」という書きこみをみたこともあります。

集ストも人間の行為です。人間が考えつくことなら、何らかの対処方法はあるでしょう。大切なのは集スト案件を事件化し、追求し、社会認知してゆくことです。問題化して批判されれば、「絶対勝てる美味しい方法」と言われることは無くなります。市民が集ストに手を出さなくなるのです。

以上は集ストの誘因要素です。特に2番目は集スト特有の要素と言えるでしょう。



その他の要素 好奇心やスリルなど

このほかにも、集ストは人を誘い込む要素に満ちています。調べていて集ストの完成度の高さに感心すらします。参加の個々人が毎日絶え間なくアップデートし続けたためと考えられます。各個人は知り合いですらないのに、互いの行為が補完し合って妙に完成度の高い犯罪・イジメ体系ができてしまった。それを許したのは日本の集ストタブーという特殊事情によるものです。外国ではここまで完成度の高いイジメ文化は誕生しないかもしれません。

では集ストにてんこ盛りの、人を惹きつけるそのほかの要因を列挙します。



好奇心


低リスクで自分の行為がばれないとすると、 人はどのような行動に出るのでしょうか?

決まっています。 だれでもスケベ心を持っています。 バレないとなれば人はついやってしまうのです。

自分の素性や行為を隠せるとわかれば、人はつい未知の逸脱を行ってみたくなります。 「旅の恥はかき捨て」 や匿名の誹謗中傷がそうですよね。 社会規範や衆目が気になりできなかった逸脱行為も、環境が許せばできると思ってしまうのです。

行動を縛りつけ自由を奪う社会規範は、煩わしいですよね。 親も先生も他人の目もうっとうしい。 逆に社会ルールからの解放は快感をうみます。



一体感


だれかと一緒に行動することは、孤独をなくします。一体感をもたらします。 自分が大きくなったようにすら感じさせてくれます。 だれかと手っ取り早く意気投合したいなら、悪者を作り一
緒に悪口を言うのか簡単です。 一緒に悪口を言えば、 コミュニティーに入れてもらえたり、集団の中で地位向上が望めます。だれかに攻撃の矛先を向けさせれば、その間は自分の身は安全です。



保身


長い人生で、 自分がいじめられないためいじめに加担する場面はきっとあるでしょう。 個人としてはよい人であっても、イジメ加担はあり得ます。周囲の圧力に押されたり、いじめの凄惨さに恐れをなし、 自分がターゲットにならないため、不本意ながらいじめに参加するのです。 残念ながらそのようなケースは多いようです。

その一方、 いったん参加すると眼前でいじめがエスカレートする様を見ることになります。職場や教室、地域の雰囲気は悪くなるでしょう。 生産性が落ちます。 嫌気がさした加担者もが、退職や離脱をするのもよくあります。私のケースでは何度も見られました。

いじめは傍観者やいじめの発生している場にも害を振りまきます。 なかには加害者・加担者自身が病んでしまうこともあります。(実際に見ました)発覚の不安やと自身の暴言が原因でしょう。人間の脳は、自分に吐かれた暴言でなくても、ダメージを受けるようにできているのです。

しかしいくらイジメが場そのものに悪影響があると分かっていても、ターゲットに目に見える損害を与えるまで、なかなか止まらないようです。憑かれたように、被害者が破壊されるまで暴走するのです。攻撃衝動の厄介さです。加害者は自分で止まれないことも多い。ですから外部からの介入や思い切った対策が必要になります。



暴力や逸脱へのあこがれ

これまで自分に許されなかった逸脱行為は、どんな感じかするのでしょうか。好奇心がそそられますよね。

だれかを力で支配するのは、それ自体が快感です。 だれでもほんの少しはチンピラややくざのような、力強い逸脱者をかっこいいと思っています。 自分もたまにはオラついてみたいとどこかで思っています。

集ストではそんな自分になれるのです。 別人の自分になれる。 かっこよくて、強くて、大きな存在になれると思ってしまうのです。もちろん自分がどこの誰か隠して行われます。卑怯なことこの上ないですね。



人前での承認欲求


逸脱行為で、市民という観客がいるのも、承認欲求を満たしてくれます。 まるで麻薬をやったかのように、 ハイになれるでしょう。

だれかを悪者にして、悪口を言い合うのはとても楽しいイベントです。 とても盛り上がりますし一体感が得られます。 公衆の面前で、面識ない市民と結託してだれかをバカにするのは、うまくいけばこの上ない娯楽となります。

駆けつけ騒ぎで、くりかえし炎上させることができれば、騒ぎの中心人物として承認欲求や自己効力感が味わえるでしょう。

この承認欲求は、ネットのホラ吹き小僧にも見られます。自分の知識を開陳したり、高度なホラ話で自分の能力を誇示し、ムーブメントを起こすのです。日本には「高度なウソを尊ぶ」変わった風習があります。ネットユーザーのマウント合戦の中生まれた風習です。

ネットの集スト界隈の情報汚染の原因の一端は、これら承認欲求のユーザーやホラ吹き者にあるでしょう。誤情報を巻いて実際の被害者が右往左往したり、病んだり、妄想レッテルを貼られるのを喜ぶのです。

少し脱線しますが、集スト界隈に限らず、他の陰謀論界隈においてもこのての悪意のムーブメント発生者の要因を見逃すべきではないと考えられます。

その他

熱量
スパイごっこで自分を有能だと感じたい
同調圧力
快感や刺激の禁断症状
ヒマと退屈
長期化して義務感が生じた
標的を自分の所有物だと感じるようになった執着
自分の問題から目をそらしたい
精神で噂をたてられたりやり玉に挙がっている人が本当に反応するか興味がある
ほんとにこんなばかげたやり口が有効なのか確かめたい好奇心
ほんとにばかばかしい人をなめたやり口でとことん悪ぶりたい
冗談めかした手法なので心理的ハードルが低い
全体像を知らないので心理的ハードルが低い




金太郎あめ市民がおしよせる


そんなこんなで、私のもとには10年間、 ピーク時で1日 200の人や車が訪れました。 ひどい日の人数や台数を数えたのです。毎日のように、「自分ひとりくらい大丈夫」と思う人間が、 代わる代わるやってくる。

これはなかなかすさまじい光景でした。

確かに常習者や情報抜きほのめかしグループもいました。 しかしほとんどは好奇心丸出しの市民でした。どこまで行ってもストーカーが出る。自分が向こうを知らないのに、相手はなぜか私を知っている。地平線の向こうまでストーカー。そのような風景を想像してみてください。対策をとり、ちぎっては投げ、ちぎっては投げしても、翌日にはまた現れるのです。

日本の昔のお菓子に、 金太郎あめというのがあります。 どこを切っても同じ模様が現れる、細長いキャンディです。 代わる代わる現れるこれらの市民は、まるでこの金太郎あめのようでした。

どの人もどの人も、同じ考えで同じ行動をする。 スリルと好奇心に取りつかれた人々は、自分がほかの大多数と同じみっともなさをさらけ出していることに気がつかないのです。

刹那の快感のために、 面識のない他人をダシにしてお構いなしです。 相手の気持ちなどこれっぽっちも考えていない。筋の通らなくても関係ない。 欲望と衝動だけです。 見も知らぬ相手へのこじらせと恨み中毒です。
かと思えば、
人生の憂さからくる当たり散らしだったり、
長く差別してきた優越感だったり、
習慣からくる強迫観念や義務感だったり、
好奇心だったり、スリル中毒だったり。

ひどい表現と思われるかもしれません。しかし 悪意と軽薄さのフルコースを食べさせられた人間の気持ちを想像してみてください。 10年で10数万規模の嫌がらせが、大した理由もなく、 惰性で行われ続けたのです。

差別は放置されると、 構造化します。 人々の日常や習慣となってしまいます。 差別が一旦定着すると、外部からの介入がなければ状況は変わりません。

残念ですが、たとえ市民が一瞬傷心の表情を見せたとしても、信用はできません。加害者は自分から状況を変えることはないのです。彼らが集スト手法の脱法性と、民衆の中の匿名性に隠れている限り、その人たちはやめません。

麻薬や痴漢常習者のように、快感系ができあがっているのでしょう。よく言われるように、認知が歪み自己正当化しているのでしょう。

周知や協力要請でかなり努力しましたが、残念ながら県外に情報を出すまで、状況は全く好転しませんでした。

集ストのいじめ体系は、非常によくできています。 人を引きつけ、 中毒にし、 多くの人を取りこむ。より多くが加害者になれば、 告発への反発や妨害はより大きくなります。脱法手法も問題解決を困難にしています。

しかしこの集スト文化の高度さは、社会への害の大きさそのものでもあるのです。
より多くを巻きこむ性質は、より多くを汚染すること。
手法が巧妙であるということは、人々がウソや謀略性を身に着けることを意味します。
発覚しにくい性質は、いじめ中毒を生んだり、他者との共謀を促進することになる。
認知されにくいため際限なくエスカレートする。
集スト中毒となった人間は、仕事中でもいじめのため不正を働くようになるでしょう。職場の健全性を損ない、不良従業員を生み、集スト以外の場面でも組織や集団に損害を与えることもある。

私は今年1月からの発信で、「 集ストは汚れ仕事の進化系」と指摘してました。しかし、集ストは実利だけでこのような進化を遂げたのでしょうか。いいえそうではありません。

実利と必要性は集ストの半分の顔です。 もう半分は、ヒトが持つ他者への嗜虐性や支配欲からきているのです。より完璧な手法体系が欲しいという必要性だけで、ここまで高度に進化したのではないのです。
まず集ストそのものが、人間の根源的欲求を満たす楽しいものであるのです。そもそも欲望があるからこそ、市民ネットワーク化という最終形態まで進化したのです。実利と娯楽性、 この2つのどちらかを抜かすと、集スト文化の理解はできません。

集スト案件を見る際に重要なのは、もはや特別の場で起こるものではないということです。 手法は市民に拡散してしまっており、「実利と欲望」、
「犯罪と娯楽」、
「犯罪と炎上」、
「犯罪者と市民」という別々の要素が融合し、事件の真相や背景が見えにくいものになってしまっている。

このように判断に迷う状況下では、各ケースへの決めつけは注意すべきです。 情報汚染のイメージから来る決めつけをやってはならないのはもちろんのこと、背景も理由も、加害者がどのようなコミュニティであるかも早々に決めつけてはなりません。今やどこでも起こりうる社会現象なのですから。

被害者への偏見にも注意すべきです。例え被害者が陰謀論や被害妄想的発言をしていてもです。
今の日本のネットには、集スト被害を受けた際に、 自分の状況を判断するための十分な情報や前例がありません。被害者訴える人におかしな言動があっても、言語化しにくい非言語シグナルいじめをうまく説明できないだけかもしれませんし、孤立や人格否定で挙動不審になっているかもしれない。ネットに信頼に値する情報がない、もしくはアクセスできないために、ネットの陰謀論に影響を受け考えが偏っているだけかもしれない。

ですからもし相談窓口で集スト被害を訴える人がいたら、その人の発言が多少不審でも、その人のせいではないかもしれないと判断を保留した上で、具体的被害を書き出す手伝いをしてあげていただきたいのです。

加えて、集スト案件は解決ができないと決めつけ、最初から切り捨てるのもやめていただきたい。背景や理由がわかりにくいとは言っても、対処法はいくらでもあります。

以上のことは、公的窓口もそうですが、市民のみなさんにもぜひお願いしたいのです。

まずは集スト案件や情報汚染の認知をお願いします。解決の先例を作り、これ以上加害者も被害者も生まれないよう、ご協力をお願いします。



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