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私の「ひきこもり感」


「ひきこもり」もひとつの人生

私はひきこもり経験者としてさまざまな活動をしています。
その活動を通して、いろんな当事者に出会います。

最近、私はひきこもりについて深く考える機会がありました。ひきこもりの当事者やその家族と接する中で、さまざまな経験を積み、新たな気づきを得ることができました。

結論から申し上げると「ひきこもりの背景は人それぞれ」

そして、「ひきこもっている状況もひとつの人生」

ということです。この考えは活動を通して確信に変わりました。
今回は、活動を通して得た気づきをご紹介します。

ひきこもりと親子関係

親子関係が良い人、そうでない人、さまざまなケースが存在します。半年にわたる活動を通して、ひきこもりの背後にはさまざまな事情があることを理解しました。ひきこもりの対応は、人それぞれの個別の状況に対処するに尽きると感じます。

活動を通して感じたことは、「親子関係が良い人ほど思考が前向きである」ということです。私は統計学の専門家ではないので正確な因果関係は証明できませんが、体感として上記の条件があるように感じていました。

しかし、活動を続けていく中で、ひきこもりの回復要因を「親子関係」で片付けてしまって良いのかという疑問が湧いてきました。

親の育て方による影響

ひきこもりの居場所活動では、さまざまな参加者がいらっしゃいます。当事者たちの話を聞く中で、「親の育て方のこれが悪かった」というものは明確には存在しないのではないかと感じました。

以下にご紹介するのは、居場所活動の中での気づきです。

親が子供の自主性を、過度に尊重して育った方はこう語ります。

親がもっと関わって欲しかった」

理由は、子供の人生経験では難しい判断であったにも関わらず、自主性を重んじた結果、子供にとっては大きな挫折体験を負ってしまうケースがあります。それが後の大きなトラウマ体験として、子供を蝕んでしまうことがあります。

一方で、親が子供の自由を奪い、生きる道を矯正したケースもあります。そんな子供はこう語ります。

「もっと自分の気持ちを尊重して欲しかった」

これは私の実体験にも当てはまります。

親が「人生とはこうあるべき」と子供の生き方を矯正することで、子供の中で反発心が芽生え、「親は話を聞いてくれない存在」として認識されることがあります。

私の親の価値観を具体的に語るなら、「良い中学に進学し、良い大学に進学し、一流企業に就職すれば一生幸せな人生が保障される」というものでした。

実際には親の予想以上に社会の変化は早く、親が勧めていた一流企業のほとんどが倒産、もしくは経営危機にさらられています。私は子供ながらに「想像もつかない将来のために、今を犠牲にすることには納得がいかない」と感じていました。

結果として、強い反抗期を迎えた私は両親とは言葉を交わさない関係となってしまいました。その後、言葉を交わすようになるのは30代半ばになってからです。

しかし、ここで言いたいのは、これほど親子関係の悪化した私でも、「ひきこもりから回復した」という事実です。これは一概に親子関係の良し悪しだけが回復の要因でないことを示すと考えています。

責任の所在

これはこの記事の結論になりますが、「ひきこもりの背後には犯人なし」ということです。

ひきこもりの背後には犯人や悪者はおらず、子供は生まれた環境で精一杯生きたと思います。親は必死に子供を育てたに過ぎません。その結果、ひきこもりになっただけで、誰も悪くはありません。

これを聞くと、「ひきこもった原因は親にある!」とお思いの当事者の方もいらっしゃるかもしれません。現に毒親と言われるように、長期にわたり子供に虐待を重ねた親も実在します。しかし、私が親の歳になってわかったこともあります。それは「子育てとは孤独で正解のないもの」だということです。

かつて私は、自分自身のひきこもりの原因を「親」だと強く認識していました。

しかし、親との距離が生まれたことで「親を理解する」「親を許す」という気持ちが芽生えてきました。これが真の親からの自立だったように思えます。

親を1人の人間として認め、過ちを犯すこともある。しかし、親のできる範囲内で精一杯子供を育ててきたのたと理解したことで、自分自身のひきこもり状態も許せる気がしたのです。

社会との繋がり

昨今、8050問題が取り立たされています。

親としては、なんとが自分が健在のうちの子供の回復を願う。これは、非常にわかる話です。これに対しては、活動を続ける中で一定の答えを見出すことができました。


それは、親亡き後も、社会との繋がりを持つことが、ひきこもりの当事者にとって幸せな生き方を見つける鍵ということです。

我が国の社会保障制度は非常に手厚いものです。実際、私の両親は無貯金で膨大な借金を抱えながらも、介護施設で生活しています。しかし、制度を正しく理解し、申請しなければその恩恵を受けることは難しいこともあります。日本の社会保障制度は「制度を知っている人が、申請してはじめて使える」ものが多いです。

ある日、行政の人が家にやってきて「お困りのようですね」「こんな支援制度があるので利用しませんか?」などということはまずありません。

特に、ひきこもりは介護制度と異なり、ケアマネーシャーのような存在はなく、有効な情報を伝えてくれる人はいません。家族の誰かが動いて情報を集めたり、助けてくれる人を探さなければなりません。当事者や家族の知識が今後の人生を左右するように感じています。

親亡き後のひきこもり当事者は、自分自身である程度は社会保障精度を理解し、適切な窓口に足を運び、自身の状況を相手に伝わるように説明する必要があります。

しかし、その行為は実際に事が起きてやるのは酷な話です。ある程度の事前準備が必要です。

親がひきこもる子供にしてあげれることは「社会との接点づくり」に思えます。平たく言えば、「ひきこもっている状況に負い目を感じず、適切に助けを求めるスキルを身につけさせること」に思えます。

そのためには、ひきこもり当事者が社会に対して信頼を置けるようにしなくてはなりません。助けを求めても叱られない。馬鹿にされない。と心から思える環境を作ることが肝要に思えます。


最後に

ひきこもりに必要なのは、愛情、気力、体力、お金だけではありません。知識もまた、非常に重要な武器となります。むしろ公的支援制度を正しく使い、家族の負担を最大限に軽くすることも大切に思えます。その心の余裕から、はじめて豊かな家族コミュニケーションが生まれる気がしています。

私はひきこもり経験者として、ひきこもりの問題に関する正確な情報を提供し、当事者や家族が社会のリソースを最大限に活用できるようサポートしていくつもりです。

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