ジェームスとボンドがいた日
ある日、私が勤めている施設の裏庭に、突如として2匹の子やぎがあらわれた。
体のサイズはとても小さく「メェ〜」と鳴く姿は大変愛らしかった。
田舎の老人保健施設では、心が躍るようなビッグイベントや目が覚めるようなハプニングが起こることは大変少なく、非常に牧歌的な毎日を職員も利用者さんも過ごしている。
東京から来ている非常勤療法士に「ここはガラパゴス(諸島)みたいだね。」と(おそらく半分バカにされながら)言われたこともあるくらいだ。
そこで彗星の如く現れたこの2匹の子やぎたちの話題は、瞬く間に、利用者さんや職員の間に広まった。
「何〜裏庭にやぎがいるんだって?!」
「まだ子やぎでかわいいみたいだよ」
「いつもいる訳じゃないみたい」
「いつ行ったら見られるのかな?」
みんな、子やぎを見たいがために、裏庭に続く洗濯場に人手ができる。
「行列ができる法律相談所」改め「行列ができる洗濯場」だ。
いまだかつてこんなに洗濯場が人気になった事はない。
その後、少しずつ情報が入ってきた。まず子やぎたちは裏庭の持ち主が飼い始めたということ。そして、主に持ち主が裏庭に来ている時に放し飼いにしていること。子やぎたちは来ている間は雑草を無心で食べていることが多いこと。名前は「ジェームス」と「ボンド」。
え?「ジェームス」と「ボンド」って。
・・・・・・・。
持ち主のネーミングセンスはこの際どうでもいい。
とにかくみんなかわいい子やぎ達を拝みたい。一目会いたいという気持ちでいっぱいだ。
突然の子やぎブームの到来。
リハビリテーションを受けている利用者さん達は、普段は絶対行かない洗濯場の裏への歩行練習を志願する人が多く出現した。
「先生、やぎ見に行かせて!!」
「私今行ってきた〜。今ならいるよ!」
「じゃあ俺も行く!」
みんな、お互いに最新の子やぎ情報を伝え合っている。ディズニーランドの突如現れるミッキー情報みたいに、利用者さん同士の積極的な情報交換は行なわれた。ここはグリーティング施設か。
ある日の非常勤療法士のカルテにもこのように記載されていて、私は大変ショックを受けた。
S:やぎ見ますか。
O:屋外歩行練習でヤギを見に行った。
P:右上下肢関節可動域練習、屋外独歩歩行練習do
あれだけ「カルテはきっちり書きなさい」と指導していた人がこのありさまである。この方は私より大ベテランで、病院だとにこりともせずにみんなに恐れられているようなお方だ。
それがこんなことになってしまうなんて・・・。
子やぎは人々を変えた。私たちもしまいには何だかおかしくなってしまい、集団レクリエーションで「子やぎをただひたすらに見つめる」という回を設けてしまった。(案外好評だった)
みんな子やぎに癒されていた。
子やぎはいつでも無心に草を食べ続けた。
時は経ち、草を食べ続けた子やぎ達は段々成長してきた。
体はいかつくなり、角も立派になってきた。
鳴き声も太く「メェ〜」が低音になった。
みんな少しやぎに飽きてきた頃、事件が起こった。
早朝の施設にやぎが突入してきたのである。
早朝だったので目撃したのは営繕のおじさん1人であった。
出社した事務長に必死になって汗だくの営繕のおじさんが説明をする。
「いきなり玄関から入ってきたんだよ!」「追い出そうと思ったんだけど大きくてさ。」「あの野郎達おしっこしやがって。」「また玄関から出て行った。」
玄関から入って玄関から出ていくなんて。なんて律儀なのかしら。
あわてて説明する営繕のおじさんの姿と、律儀なやぎたちがおかしすぎて、その日は思い出し笑いがとまらなかった。つくづく変な施設だなぁとみんなで笑い合った。
そしてやぎたちはやってきた時と同様に突如として姿を消してしまった。
噂では、やぎたちは他の人に売られてしまったということだった。
こんなドナドナみたいな結末だったけど、ほんのひとときでも私たちを癒してくれたやぎたちは今もどこかで幸せに暮らしていると思いたい。
やぎたちは、実は私たちをあざむく「優秀なスパイ」で、利用者さん含め私たちがやぎにうつつを抜かしてさぼっていたこと(記録の中では歩行練習に励んでいた事になってはいるが)を誰かに報告していたら、それはそれでおもしろいなぁとは今更ながらに思うのである。
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