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意志のプロセスについて

有さんの記事を読んで考えた。

何も考えていないアイヒマンについて書かれていた。

人の行為は理性と欲望では測れない。やりたくないことをしている状態で、「本当はやりたくない」と言うことができるのか。やりたくないことをやらされていても、結局やってしまっているから、本当はやりたいことなのではないのか。そうなると、何がやりたいことで、何がやりたくないことなのか、判断がつかなくなる。その判断をするために「選択」があるのだと。理性と欲望の狭間に「選択」がある。過去からの選択の積み重ねがあり、今の選択があり、この先の選択がある。これは哲学で扱うことか。

選択のつらなりで「誰にでもなれる」あるいは「なってしまったかもしれない可能性がある」ということばは、胸の奥をぎゅっと何かにつかまれてしまったようなひんやりとしたこわさがある。

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ここで少しこの話題から離れているようだが、少し関係もありそうな「意志のプロセス」についてまとめてみる。

私は作業療法士という職業に従事している。
そして「人間作業モデル」という作業療法理論を軸にして物事を考えていることが多い。

作業療法士的な意志の捉え方をおさらいしてみるが、私は作業療法士のマスターではないので、中身については不適切な解釈をしている可能性が高いし、あくまで「作業療法士的」なおかつ「一つの理論」からの抜粋なので、了承して頂きたい。

つまり捉え方は多角的な方がいいに決まっているし、これが正解でもない。あくまで数ある考えのひとつの「見え方」である。他分野の意志の捉え方について機会があれば学びたいと思っている。

1.人間作業の概念について

人間は以下の3つの相互に関係する構成要素からなるとしている。

・意志
・習慣化
・遂行能力

それぞれの3つについては今日は細かく説明しない。
今回は意志について着目する。

意志とは「動機づけ」である。動機づけとは、目的や目標などのある要因によって行動をおこし、それを持続させる心理的過程を表す心理学用語である。

次に意志の構成要素は3つある。

2.意志の構成要素

個人的原因帰属
価値
興味

例えば私の目の前に一つの豆大福があるとする。

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個人的原因帰属」とは、自分があることを引き起こす原因になれるという気づきである。
例えば、私は目の前の豆大福を何回か食べたことがあるし、食べ物であるということも視覚で確認している、そして、右手を動かしてこの豆大福を食べる事ができるという確信をもっている。自分が操作できる事象が目の前にあるということだ。

価値」は自分にとってどんなものが重要なのかを特定化し、自身がどのように行動しなければならないのかについての自分の中の基準である。
例えば、私は目の前の豆大福を食べる事は、午後3時のおやつの時間でちょうど小腹もすいてきているので、いいことだと思っている。甘い物を食べると頭も働いて午後の活動もしやすくなるかもしれない。おやつを取る事で少し休憩をとって、体を休ました方が効率よく働けるかもしれない。非常に食べる事に価値を見いだしている状態である。

興味」は人が行うことに楽しみや満足を見いだす事である。
例えば、この豆大福という食べ物は私の好きなあんこが入っていて、なおかつ大好きなつぶあん仕様である。好きな食べ物を食べる事で満足感が得られるし、幸せになれると思う。食べる事にいつでも挑戦できる気持ちが備わっている。

この3つの構成要素は私たちの行為と世界に関する考えと感情の中に織り込まれている。

次に意志のプロセスについてご説明したい。

3.意志のプロセス

意志は行なっている間に予想し、選択し、経験し、解釈している。

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意志はたえず進行している。4つが同時進行だったりする。時間の中で起こっていく。


予想:世界は私たちにごく近い将来の行為と遠い未来の行為の可能性を示す。
私は意識するにしろしないにしろ、豆大福を食べる事でどうなるかをイメージしている。先ほど話した幸せになれる気持ちをもつことや、豆大福を食べ続ける事で体重が増加してしまう未来が待っているかもしれない。

選択:私たちの日常生活は、次に、後で、明日、何を行なうかを選択する事によって影響を受ける。
この場合、太るかもしれない可能性があるにもかかわらず豆大福を食べてしまうという選択を私はしている。これがもし仮に私が有名モデルであったとしたら、自分の役割(体型をキープする事)を感じて、食べるという選択肢をしなかったかもしれない。

経験:遂行のまっただ中にあって、遂行の反応として、創発する直接的な考えと感情をさす。
人は経験している時に、楽しんだり、不安、快適さ、挑戦、うんざりといったことを感じているかもしれない。私は豆大福を食べておいしい〜とか甘じょっぱいとかもちもちしてやわらかいと感じている。

解釈:自分と自分の世界にとっての意味という点で、遂行を思い出し自省することと定義される。
「食べる前のイメージよりボリュームがあったな」とか、「やっぱり〇〇店の豆大福は間違いがなくおいしかったな〜」とか、いろいろ考えて、次の行動をまた人は選択していく。

これが先ほどの構成要素(個人的原因帰属、価値、興味)に全てからんでいく

4.環境が全てと交流する

人が作業遂行と作業従事に向かう感情は、与えられた環境の中での意志、習慣化、遂行能力のダイナミックな交流の結果である。

環境要因は社会的(課題、社会的集団、文化的・社会政治的環境)、制度的(政治的または制度的環境、文化)、物理的空間(対象物と空間)の要因と定義している。

例えば、豆大福を1人で食べようとしていたら食べてしまうところを、子どもに見られていたら半分こにするかもしれないし、夫がじっと見ていたら「やせろってことか?」と食べるのをやめるかもしれない。もっとおいしいものがあったらそっちを食べているかもしれない。

5.システム理論

人間作業モデルは、ダイナミックシステム理論の文献などに基づいて理論が構成されている。ダイナミックシステム理論は、生物システムがどのように自己組織化し、連続性と変化、特に非線形タイプの変化というゆらぎを通して動いていくのかを説明している。

人がうごくということは、単に人の筋力や持久力などの問題だけではなく、人の意志や環境によって大きな影響を受けている事がわかる。

ここまで、意志のプロセスのおさらいとする。

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アイヒマンがそのような選択をしてしまった背景には、プロセスの過程でそのようなエネルギーに向かってしまうような自分では意識化できない大きな力が働いていたのかもしれないし、その時代のその時でなければ生まれなかった行動であるかもしれない。そして人間としての倫理観に欠ける意志が勝ってしまった選択は、たったひとつのボタンのかけ違いでもしかして結果が変わっていたかもしれない。ある特殊な環境によって選択してしまったという事実は、自分が全く不在であるということはない・・と私は思う。

自分というのもゆらぎがあり、多面性があり、選択も瞬間的で、時には刹那的な部分もあり、白黒はっきりつけられずグレーの濃淡を行き来しているようなものだから、ある瞬間に奇跡が起こってしまうのだろう。それが例え人類にとって悪い事でも同様であると思う。



※いつも例えが食べ物ですみません。つぶあんが好きなんです。

※臨床ではこのような事を考えながら一応取り組んでいるような、いないような。

※まわりから見ると「またあいつ遊んでいるよ」で終わります。

※有さん、まとめるきっかけを下さりありがとうございました。勝手に取り上げてしまってすみません。



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