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敵はどこにいるのか

奥田知志さんの「いつか笑える日が来る」をゆっくりと読み進めている。

今日は「悪の外在化」ということばが気になっている。
ヒトラーの後継者と言われたゲーリングは、ドイツ敗戦後にニュルンベルク裁判にかけられた。この人物がギルバートという心理分析官に対して、語ったことばが記録されている。

「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし最終的には、政策を決めるのは国の指導者であって、民主主義であれファシスト独裁であれ、議会であれ、共産主義独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単なことだ。それはとても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はあらゆる国でも有効だ。」
戦争を起こす方法、しかも簡単に始める方法は、「敵が攻めて来る」と国民に言うことなのだ。「外なる敵」がこちらを狙っている。「悪の外在化」、悪は常に自分の外に存在するという意識が戦争を可能にする、とゲーリングは言ったのだ。(P.208 )

「敵を作る事」「悪を見える化」する。これだけで人は簡単に分断される。


今、夫がアマゾンプライムで視聴している「ダークナイトライジング(2012公開)」でも、ちょうどこのことばのようなシーンが流れている。

ベインというキャラクターが警察の犯罪の隠蔽を暴露し、「市民にゴッサムを取り戻せ!」と支配層への怒りをたきつけて、貧困層の反乱を煽動していた。敵は市であり、警察であり、支配層や裕福な人々だ。囚人を開放し、街を混乱の渦に陥れる。

日本においても「敵は本能寺にあり」の明智光秀が有名であると思う。
主君の織田信長より備中の毛利を攻めるように命じられていた光秀の軍勢は、討つべき敵は本能寺にいる信長であるとして、そのまま進路を東にとって京都の本能寺に向かった。ここで光秀はみんなに向かって「敵」は「どこ」にいるのかを名言したことで、部下の武士達の結束が固まったのではないのだろうか。

「悪」を外在化することで、人の気持ちは簡単に操れる。それが権力を持った存在であると戦争へと発展していく。

「悪」をどのようにしてとらえるか。

コロナ禍でたくさんの人々のやるせない気持ちが、SNS上でも毎日少なくない数で解き放たれている。

行く末がみえない毎日の中で、増える感染者、失業する労働者、自殺に追い込まれる人々、ストレスはもうとうの昔に限界に達しているのだろう。そのような状況だからこそ私たちも抱えている荷物の負担を減らしたいがゆえに「悪を外在化」して、何かを攻撃していないだろうかと、ふと不安に思う事がある。

声が届きやすい社会になったことで、たった1人の意見がつぶされずに発信できる社会だからこそ、命が救われた出来事や、発露されたささやかな想いが見えるようになった。
しかし、その声がある方向性に傾き、徐々に大きな力をもって、一部の人々を追いつめるような局面を迎えないように「悪」を外在化せず、自分の中の「悪」を監視する。「内在している悪」を見つめる勇気をもつことが、望まれているのではないかと思う。


※「痛いの痛いの飛んで行け〜」と子どもにいうことで、怪我をした子どもが泣き止むのは、子どもをもつ親ならなじみの場面だと思うが、外在化して良い方向性に行く場合もあると思う。これだけで通用するのは子どもで、大人は自分の中から出したり入れたりを繰り返して、様々な角度からそのものを検証するべきなんでしょうね。

※かくいう私も、すぐ敵を見つけて、日々変な呪いをかけているので(くじ引きでティッシュしか当たらない呪いとか、1ヶ月に3回位、犬のうんちを踏んづけてしまう呪いとか、傘をもってない日に必ず雨が降る呪いとか)、来年度から自分の行動を戒めたいと思います。

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