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誰のための「大丈夫?」なのか

soarのイベントで気になった西村佳哲さんの本を読んでいる。

最近私は、読書中に気に入った文章があれば線を引いている。この本は感銘を受けた文章だらけで、本の中がマーカーの線だらけになってしまった。
(だから便利なのはわかっているが、Kindleではなかなか本が読めない)

今まではその文章を自分の勉強ノートに手書きで写していたが、この「note」をメモ代わりにしてもいいのかなと思い立ち、今日は書いてみる。

この本は題名にも書かれている通り、人との関わり方について書かれている。その中でファシリテーターについての話題が多い。このファシリテーターとワークショップ等の参加者の関係性は「親と子ども」「先輩と後輩」「上司と部下」などの関係性にも通じる部分があり、とてもヒントになる。私だったら「作業療法士と患者さん、利用者さん」にも通じている。

なぜそうなってしまうのか?その人のしんどさや悩みなんて本当は聞きたくない、ということなんだろうか?相手に元気で、楽な状態でいてほしい。そのほうが自分も楽だから。

一緒に歩いていて転んでしまった子どもに、親が「大丈夫?」と声を掛ける時、そこには「大丈夫」と言って欲しい気持ちが混ざっていることがままあるんじゃないかと思う。「どうした!?」とか「どこか痛い?」という声掛けでもいいはずで、「大丈夫?」という言葉には本人の気持ちを少し先回りしている気配がある。だとするとその子を案じているようで、実際は自分のために働きかけていることになる。

子どもをもつ親としては、身に覚えがありまくりだし、日常の中で「大丈夫?」と聞いている場面は、実際的には本当に多いのだ。

「人を心配しているようで、実は自分がつらい」というのは意外と自覚していないだけでよくあることなんじゃないかと思う。


夫ががんの診断を受けた時に、自分たちの両親には包み隠さず病気のことを報告した。

その時に、夫の母親は(わたし的にはお姑さんだが)ひどく動揺していた。そして「かわいそう。何だか私がつらくなってしまう。」「〇〇(夫の名前)のことを考えるといてもたってもいられなくなってしまう。」「悲しくて悲しくて、どうしようもない。」と毎回会うたびに私に話をしてきた。

この場合はもちろん、「自分の子どもががんになってしまった母親の気持ち」を察して、心配をするべきではあったのだと思う。

しかしその頃の私は、普段の生活に加え、夫の入院やら、入院中に起きた飼い犬の事故などで、忙しさもあり心の余裕がなくなっていた。

面倒くさいな」と正直思ってしまった。

この母親はがんの息子を持った「自分」がつらいのだ。

夫のことで精一杯なのに「私はお姑さんの心のフォローもしなくちゃならんのかい」と心の中で必死に叫んでいた。

(私はチキンなので、心の中で叫んでいただけで、実際はちゃんとできる限りの心配はしてました)

私の仕事の相手は、解決できない問題やつらさを抱えた人が多い。
そのつらさやしんどさにつき合い続けるというのは、口で言う程にたやすくはなく、重荷を一緒にあるいは少し肩代わりして背負い続けるような覚悟も必要な時がある。その時に「大丈夫?」という言葉に逃げて、問題の本質や相手の困りごとを見失わないようにしたい。「じりじりとしたつらさと共にいる」ためのこころの持ち方を今後も学んでいきたいと思う。


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