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漠然とした思い

「ポーの一族」を読んでいた。

私はある事情により、数日間、部屋にこもりきりの生活をしていた。

この漫画は私が担当している利用者さんから借りたものだ。

小学館の少女漫画雑誌『別冊少女コミック』の1972年(昭和47年)3月号から断続的に連載され、1976年(昭和51年)6月号で完結した。2016年(平成28年)に、40年ぶりの新作が小学館の女性向け漫画雑誌『月刊フラワーズ』の7月号に掲載され、その後は断続的に連載が再開されている。

wikipediaより

耽美な世界観。線が繊細で、なめらかな曲線に思わずため息がでる。
私が生まれる前に描かれた世界は、読む前の予想をいい意味で裏切る幻想的なストーリー「吸血鬼(バンパネラ)」のお話だった。

若い頃に観た「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」をふと思い出した。ストーリーは全く忘れてしまったけど、あれも端麗な俳優さんたちが次々と登場してきて、麗しい世界を繰り広げていたような気がする。

私はこの漫画を読んでいるときにもう一つ、ある人物を思い浮かべていた。
それはnoteで懇意にさせてもらっている「バクゼンさん」だった。

バクゼンさんは、私がnoteを始めた初期の頃からのお知り合いだ。おかげさまで長いお付き合いとなっている。

少し前の事だったと思うが、バクゼンさんが私の記事に対して、感じた事や想いを重ねて綴って下さった記事がある。

この記事に出てくる萩尾望都さんの「銀の三角」の「ラグトーリン」の絵がずっと頭から離れない。

生命は循環する
少しのズレを生み出しながら同じ着地にはならないで
らせん状に進んでいく
変わらないのは 人の思い?
しかしそれさえも 記憶の中で変わってしまう
繰り返し訪れる死と再生
かすかな光だけ不断に輝かせながら永遠の死が訪れない苦しみ

葦の生い茂る原始の川辺に戻ってきたよ。
歌を歌う黒い瞳のラグトーリン
でもそのラグトーリンはあのラグトーリンかな
その歌はあの歌かな
歌のことばをわずかに書き変えたのは誰なんだろう
そこからねじれていく ずれていく
同じ今日はなく同じ明日も来ない
あの人にももう会えない
思いだけが取り残されていく、飲み込まれていく

あの人はどこへ行った?
私はどこへ向かっている?

わからない
いつか終わりが来るかもしれない
来ないのかもしれない

時間のらせんを流れて
また、葦の岸辺で歌うラグトーリンに出会う
それは瞬きをするわずかな時間


答えはまだわからない

バクゼンさんの記事より

私はこの記事を読んで、まだ上手くこの内容を受け取れていないような感じがしている。
それこそ、見えないものを見る力が私には不足している。見えているはずなのに見えていないもの。見ようとしていないもの。それは私という枠を超えたものに触れたり、想像することが大切なのかなと思う。

そして最近、ようやくこの年になってきて「わからない」に少しずつ付き合えるようになってきた。

人間はわからないものに出会った時にすぐわかりやすいものに飛びつきたくなってしまう。

耳障りのいいことば。

誰かが言っていた賞賛をあびるようなきれいすぎることば。

これらを借りて「はいおしまい」にできれば何事も簡単である。
しかし、借り物は借り物。いずれ綻びがでてくる。

わからないものをわからないままにしておく。

わからないにどう向き合っていくか。
それは普段、私たちがまわりのなんらかの出来事をひきうけていかなければいけない状況で生活している中で、少しスピード感に劣ることなのだと思う。

でも、そこと丹念に向き合う事で、自分の人生の豊かさに繋がるような気もしている。

もっと枠組みを広げること。
頑なな想いを解き放つこと。

これらに対しての努力を私は個人的にしていかなければ、と思う。

バクゼンさんと関わることで、その在り方から、私は「生老病死」や「障害」に対して、自分の中で問いを立てることが多い。

それはバクゼンさんが長年お子さんの持っているもの抱えているものと真摯に向き合ってきたからだ。

話は少し変わるが

以前….20代の頃に出会った一冊の本に私は衝撃を受けた。

それは私と同職種の田島朋子さんが書いた「障害受容再考」という本だった。

私はこの本にこの頃に出会えて良かったと心から思っている。
ここで全てを紹介できないので、気になった段落だけ少し抜き出してみる。

その論文で言いたかったことは至極単純なことで、リハビリテーションはクライアントに対して何か「できる」ように働きかけ、その人の「社会への適応」を目指しているという大きな文脈があるわけですが「できること」に価値があるから「できること」を目指すのは、障害(を持つ人の)価値を否定することになるから否定されるということです。抽象的な言い方になってしまいますが、つまり私たちセラピストは、なぜ「できること」を目指すのかと自問し、答えを見つける必要があるということです。それをしないことには、どうしても「できること」を目指すリハビリテーションの行いは能力主義的な社会の価値観を後押しする格好になってしまい、「できないこと」≒障害を否定していくことになってしまうからです。ということは図らずとも、能力による格差(差別)を肯定することになってしまうわけです。

論文では「障害受容」が「いつのまにか障害を持つ者の義務になってはいないだろうか?リハがうまく進展しない場合に、当事者が『障害を受容していない』と専門家は責めていないだろうか?」と問い、「疾病や障害を受容する過程は当事者のものであり、専門家や社会が強いるものではないはずである。『立派な障害者』を期待することは新たな社会的不利を形成してしまう。一方的な障害受容論に反対するかたちで当事者自身がたどりついた」のがリカバリー論であると書かれていました。

臨床現場では「自分の病気を受け入れない」「自分の障害を受け入れない」患者さんをある種「困った患者」「難渋ケース」として一方的に医療福祉職が「ラベリング」をして、対応している場面を私も何度か見かけたことがある。

私自身にもそういう考えがなかったかというとウソになると思う。
ともかくこの本を読んだころから、私は自分と患者さん、利用者さんとの距離が「果てしなく遠いところにあること」にようやく気づけたような気がする。

それはまさに、ぞっとするような……背筋が凍るような感覚であった。

そして、もっともっとたくさんの声を聞くべきだと思い、何らかの「当事者」に当たる人たちの話を意識して聞いたり読んだりするようになった。これは今でも続けているつもりだが、続けていて一つわかったのは、私はその人にはなれないし、同じ世界をみることはできないという事実だけだ。

2年前にある一冊の本を読んだ。
児玉真美さんの「殺す親殺させられる親」

児玉さんについては以下を参照して頂きたい。

1956年生まれ、広島県在住。京都大学卒業。米国カンザス大学にてマスター取得。英語の教師(高校・大学)として勤務の後、現在、翻訳・著述業。一般社団法人日本ケアラー連盟代表理事。1987年生まれの長女に重症心身障害がある。

お子さんに重度の障害がある中で「アシュリー事件」を筆頭に、こどもの医療における意思決定、ボイタ療法の体験、死ぬ権利、相模原事件、親はどう考えるか、などについて重層的に綴られている本だ。

私は児玉さん親子が母子入園で受けた「ボイタ療法」の記述に、たとえ私が資格を取得する前の話であったとしても、一人のリハビリテーションスタッフとして大変心を痛めた。そこで行われていたことは「援助」というよりも「指導」や「教育」あるいは「虐待」に近いものだったからだ。「治る」と言われている療法を信じて繰り広げられる「医学モデル」だけで推し進められるような(そもそもこれをやれば治るという主張は間違いで根拠がないことは後に判明するのだが)異常な光景を想像しただけで、胸が苦しくなってくる。
そこには親の切なる想いと、医療職のある種、盲目的な善意であったことに、正義と悪で片付けられないような複雑な思いがある。

児玉さんが本の終盤の方で、「あの山のむこう」というタイトルで障害児の親たちの老いと親亡き後について言及している。

ご夫婦は還暦を迎えて、ご自身の身体のあちこちが痛みだす年齢にさしかかっている中で、児玉さんは我が子に「してやれないこと」が増えてくることに気づく。
そのうちの一つが「海さん(児玉さんのお子さん)を自宅のお風呂に入れる事」であった。児玉さんのお家の浴槽は10数年前に親子3人で入れるようにバリアフリーに改修していた。そして、児玉さん自身はそんなお風呂の時間を「のどかで心地よい時間だった」と綴られている。
「お風呂の時間を失うのは苦渋の決断だった」
「まだしてやれること」が「もうしてやれないこと」へと変わっていくことに対してとてつもなく悔しいし悲しい。とも述べている。

このお風呂のシーンは「本当にお風呂介助は大変なんだなぁ」と思ってしまうほどにかなりの重労働である事を想起させる。だから、このお風呂の時間を続けることは並大抵の事ではないし、自身の身体への負担や、時間の制約もかかってきているのだと思う。

ケアスタッフなどの他人にまかせる事で「楽になった」という側面が捉えられがちだが、一方で、親子で一緒に積み重ねてきた体験がもう一緒に行うことができない喪失感やさみしさ、切なさを静かに受けいれながら親たちは過ごしている事に、私は思いを馳せたいし、想像したいと思う。

そして、夫婦の片方がいずれ欠けた時についても「それがかつてのように『あの山のむこう』という速さではなく、すぐ眼前に迫っている事に呆然となる。」と書かれている。

「海ちゃんのためにも長生きをしてあげなさいよ」「親は長生きをしてあげないといけませんね。」などと言われるのが、私には不快だった。もちろん、自分で自分の家族を作ることができない我が子を思えば、できれば長生きをしてやれたらという気持ちは自然な願いとしてある。けれど、自分がそんな素朴な想いを抱くことと、周りから押し付けがましく求められることは全く別だ。そんな、意思や愛情や努力でどうにかできるわけでもないことを、なぜ障害のある子供の親というだけで、求められなければならないのだろう。なぜ、私たちは障害のある子供の母親というだけで、生身の人間には不可能なことを可能にしろと求められなければならないのだろう。まるで「この子のために長生きする」と親が決意されすれば、それは可能なことにできるのかのようにー。

その一方に、「私自身にもあり得たはずの別の人生」を思ってみる日がないといったら、嘘になるのではないか。「犠牲になった」という気持ちとは違う。「これでよかった」「それなりに幸福な人生だった」と振り返る一方で「一人の人として存分に人生を生きることができなかった自分」を、もはや生き直すことがかなわない地点から遠く思いやるような気持ち、とでも言えばいいだろうか。けれど、その寂しさや、その先にある思いには「口が裂けても言えない」ほどの禁忌がある。同じ立場の母親同士でなければ語ることができないことが、私たちにはまだあまりにも多い。

絵のデッサンを描く時に「たまに目を細めて、ぼんやりとそのものを捉えること」と最近、先生に教わった。

私はバクゼンさんと接していて、バクゼンさんが語らないこと、あえて語ることのない想いをたくさん持っていることに、正直に言うとたまに立ちすくんでしまう時がある。
「畏怖の念を抱く」
ということばが当てはまるように思う。
おそらく私は、関わる中で今まで大変失礼な事もしてきていると思う。

でもいつだってバクゼンさんはバクゼンさんなのだ。

バクゼンさんからコメントを頂くと、私は思わず笑みを浮かべている。その時に目は細めていると思う。

まさに「漠然」と、あえて私はそのようにぼんやりとバクゼンさんを捉えているような気もする。

そして、ポーの一族を読みながら、バクゼンさんの出演されていたすまいるスパイスを拝聴した。

そこにいるのは、いつものバクゼンさんだった。
お名前のエピソードや、新潟弁での朗読、ピリカさんやMarmaledeさんとのあたたかいやり取り、全てがやはりバクゼンさんだった。

私はそんなバクゼンさんが単純に「好き」なんだ。
それは人として好きだから。
それだけの理由でこのnoteの世界の中で一緒に過ごしたいと思っている。

そして、そこに含まれている諸々について、私はまた答えの出ない思考を巡らせたり、笑ったり、ちょっと心配したり、そんな風にしてこれからもお付き合いしていきたいと願っている。

と、言う訳で、私の「漠然」とした日の記録はここまで。
バクゼンさん、これからもこんなやつですが、よろしくお願いします。

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