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この美しい世界が見えるのなら
私は若い頃「自分の存在は無意味だ」と思っていた。
高校を中退し、社会に属さず、家で引きこもる私は誰の役にも立たないお荷物であると思っていた。
今は違う。
そんな事を思っていた自分を殴ってやりたい。
と同時にあたたかく抱きしめてやりたいとも思う。
生産性がないやつはお荷物だなんて
自分にそう思ってしまっている私は
きっと相手にも同じような差別を必ずするだろう。
今はそんな事を思いたくない。
知らなかった自分を恥じることもない。
あの時は自分を守ることに必死だったのだから。
ただ、私のあの時の態度によって傷をつけてしまった人たちに対して申し訳ないと思っている。
そして、今の自分も決して差別をしていないとは言い切れない。
むしろ差別をしていると思う。
している状態を自覚できるようになっただけ少しマシなのかもしれない。
生産性について。
若松英輔さんという方が本で書かれている内容を記す。
ある日、その病院に行ったら、本当に体の小さな、寝たきりのおばあさんがいたんです。もう自分で体を動かすこともできない、精神も弱ってしまった小さなおばあさんです。
その時、私はその人の姿を見て、「ふっ」と笑ってしまったんです。もちろん、げらげらなんて笑わないですけど、「ふっ」って笑った。理由はわかりませんでした。
しかし、今になって思うと、精神がある限界にきていたのだと思います。あまりに深刻な現実に耐え切れない私は「ふっ」と笑うことで我に返ろうとした、ということを心理学的に説明できることも、今ならわかります。
でも、当時の私はそんなことはわからない。「どうして、おまえは、あの時、こんな光景をみて笑ったんだ」と自分に問いかけ続けた。笑った自分が許せなくて、私は介護という現場に入ってみようと思ったのです。
~中略~
私の人生に影響を与えてくれた人は何人もいます。しかし、この寝たきりの女性を凌駕する経験はそう多くはありません。彼女は、社会的にはおそらくほとんど「非生産的」だと思われる、寝たきりの老人です。しかし、それは外面的な意味に過ぎない。彼女の存在は、少なくとも一人の若者の命を救ったのです。計り知れない意味の重みを持って存在していたのです。
生産性にとらわれること。
何もつくりだせない人は生きている価値がないのか。
若松さんにとってはこの寝たきりの彼女の存在が、彼の人生に大きな影響を及ぼしている。彼女はたまたま、ただそこに在っただけである。
優生思想ということばがある。
(生まれてきてほしい人間の生命と、そうでないものとを区別し、生まれてきてほしくない人間の生命はなくてもかまわないとする考え方)
障害者やマイノリティに向けられていたこのことばは、今は様相を変えていると聞く。
現代社会は自分たちがいつ優生思想の被害者になるのか、みんながみんな不安を抱えている。このように自分の下を作れば作るほど、自分を追い詰めていくことになる。まったくもってキリがないことである。
何かをつくっている人がえらいという発想はもうやめにできないだろうか。むしろ受け取る人がいないと、作っている人も意味はないのではないか。
日本の社会では果たして全部が全部本当に必要なものをつくっているのだろうか。
自分が他者に何を与えられるかを人はほとんど知らないのだと思います。また、逆に何かを与えていると思っている時は、相手にとってはいらないものだということが多いかもしれません。与えるつもりなんてなくて、朝、明るい声で「おはよう」と声をかけただけでも、声をかけられた人は幸せな気持ちになって、そのことをずっと忘れない、ということもある。人間が人間を幸せにするというのは、本当に些細なことが影響しているのではないでしょうか。(「悲しみとともにどう生きるか」より抜粋)
この些細な事だけど、お互いに影響している事っていっぱいある。
誰かが前に進んでいく背中を見て、勇気をわけてもらえる気持ち
深い悲しみを吐露することで、一緒にたゆたう事ができる揺らぎの場
何かに夢中になる必死さから感じる、眠っていた気持ちを思い出させてくれる熱
楽しく笑っている姿をみて自然と心がはずんでいるわくわくとした感情
誰かに会いたいと行動して、つながっていくことに連鎖するやさしさ
自分を解放することで開かれていく誰も見たことのない世界
みんな自分がしていること、存在している事が
ほんのわずかな意味のない些細な事であると思っていても
必ずそれは誰かに何かに渡っていって
大きい大きい源流になって
影響を与えることがあること。
自分の中に他者が入り込んで、他者にも自分が入り込む。
お互いの存在に我を見つける。
そんなことは夢みたいなことだと言われるかもしれないけど
この美しい世界が見たいのであれば
今目の前にある、命は尊重されなくてはならない。それは自分を生かすことにつながるから。
そしてそれを奪うことは誰にも許されないことであると私は思う。
そんな美しい世界を誰かと分かち合えることが「幸せ」なのだから。
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