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死について少し考えてみた②<考えるきっかけになった2つの記事と大悲>

前回からの続きです。

なぜ私はこのようなことを考えているのでしょう。

それは2つのnoteの記事がきっかけでした。

1つはおだんごさんの記事。

びっくりした。人の死に向き合う仕事をしている。死を間近に感じ、不安を感じる人や家族に寄り添う仕事をしている。

ゴールが見えなくとも、ゴールがあることを毎日意識して仕事をしている。

それなのに、私は、私たちのお母さんたちが本当には死なないと思っていたのか。だからこんなにも動揺しているのか。

ずっと死は、自分事ではなかったんだ。こんなに恥ずかしいと思ったのは久しぶりだった。情けなくてみっともなくて、だけどそうだったんだな。

おだんごさんが自分の母親に言われたタイトルにもなっていることば。
それを受けておだんごさんは、母親に教えてもらった身内が死ぬ事を自分事にはしていなかった自分と、利用者さんのご家族と相対する事で見えてきた、終末期での関わりに対する伝え方について、両者にたくさんのことを教えてもらったと締めくくられる。

それに対して後日、はなまるえさんがこのような記事を書かれた。

親はいつかは死ぬ。
それは当然のことだ。
しかし、何となく、それが当然だと思っているだけであって、
実際、自分の身に降りかからなければ、
それは未経験の、実感を伴わない架空の出来事なのだと思う。
老人ホームで働いていて、人の死を多く見ているからという理由で、
その当然を、実感には出来ないし、それをこちらが求めてもいけない。

やはり人は、実際に起こっている事実しか
受け取れないように出来ているのだと思う。
どんなに予測できるようなことでも、
それが「今」の出来事でない限り、それは現実ではない。

どんな人であろうとも、
自分の親は死なないと思っていてもいい。
自分が大切に思う人は、死なないと思っていてもいい。
きっと、そういうものなのだ。
それは、傲慢なことでも、浅はかなことでもない。

いつかその死を受け取らなければならない、その日まで
戸棚の奥の、もっと奥の方に、そのことはしまっておこう。

それでもいいのだと私は思う。

はなまるえさんはご自身のお母さんが脳出血を発症したエピソードを元に「身近な人の死というものは、それだけ自分の意識から遠く離して、戸棚の奥にしまってあるものなのだと思う。」ということばで、おだんごさんを傷つけないよう静かに程よい距離で近寄り、ご自身を責めるおだんごさんの思いを肯定して救い上げる。

この一連の流れを見て、私はあることばを思い出した。

昨年夏に「SNS医療のカタチオンライン」というイベントで、飛鷹和尚(高野山高祖院住職の飛鷹全法さん)という方が登壇された。

和尚は「大悲」ということばを教えてくれた。

まず「慈悲」ということば。

はなまるえさんが度々私のことを「慈愛のくまさん」とおっしゃって下さり、前日それは「ジジイ愛」と間違っていると訂正させて頂いたばかりだが・・・私は慈愛とはほど遠い。慈愛と慈悲の説明は以下の通り。

「慈愛」親が自分の子どもに対するような深い愛を意味する。
「慈悲」とは慈しみあわれむ心を意味する仏教用語。
 二つの言葉に共通する「慈しみ」とは、愛情をもって可愛がること。

「慈悲」も「慈愛」も意味合いは似ている。

慈悲」は成立しないことがあると和尚は話された。
受け皿が整わないと慈悲は受け取れない。慈悲の不成立がある、と。

自分の命が、個体を超えて先祖から代々つながれて、次につながっていく。そういう、命そのものの大きな根源性に気づくと、自分を超えた他者に対して。気持ちを向け直すことになる。その過程で、命においてつながっている他者に、「大悲」という絶対的な共感を持つということがあります。
密教で使う言葉です。大悲。「大悲」の「大」は、「比較や相対ではない」というニュアンスです。
「慈悲が成立しない」とか、「こういう慈悲があればこういう効能があるだろう」というものは、ある種の相対的な関係性の中にあるわけですけれど、私たちが仏と呼ぶ存在の、本当の慈悲(的なもの)は、相対的なものを超えて絶対性を帯びている。
「慈悲が成立するか成立しないか」ということはもはや関係がなく。ただひたすら自分および、自分を包摂するすべての生きとし生けるものに対する共感、これを「大悲」というふうに観念するわけです。(ヤンデル先生のnote 山際の向こう、2秒の先に(10)より抜粋)

これは2人の大悲の物語なんだなと思った。

お2人は家族を包み、利用者さんを包み、noteの仲間を包む。

それは慈悲を受け取るか、受け取らないかという相対的なことは全く問題にしていない。大きな共感に包まれている。


私はただただ感嘆した。

すごい、この命のやり取りはなんなんだろう。

ぼんやりとノートパソコンを見つめていた。


けれども、この後がいけなかった。

このやり取りに触発された私はよからぬ思いを抱えていた。

私には私の向き合い方がある。もちろん2人の物語は共感しかないことはわかりきっている。みんなもう包まれている。

でもでもグラデーションだ。私はこの2人とはまた違う部分がある。違う色をきっと持っている。

違う色を差し込みたい。

悪魔と天使の声が聞こえる。こんなコメントを入れこんだら、せっかくの思いに水を差すでしょう。わかってるの私?
場合によっては大変お世話になったこのあたたかい仲間達に嫌われてしまうかもしれない。それでもいいのかいお前さんよ。

でも死について私は棚上げしたくない。悪あがきをしたいのだ。負け戦になることはわかっているが、大人げない戦いをしたい。

何よりこの人たちはきっとひきうけてくれる。

そんな私をひきうけて包んでくれる。私は信頼していた。そう、根拠はないけど確信した。

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ああ、やってしまった。


次回へつづく

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