そんなことばが欲しい訳ではないんだ
本を読むのは比較的好きな方だと思う。
でもたくさんはやくは読めないので、自分のペースでゆっくりと読んでいる。
それは小さい頃からそうだった。
本を読んでいるといろいろな人に褒められる。
「えらいわね」
「立派だね」
「頭がいいんだね」
って。
それは大きくなってもそうだ。
「すごいね」とか
「勉強熱心だね」とか
「私にはとても無理」とか。
そう言われると何だか少し胸の辺りがちくちくして、いたたまれなくなって、自分が自分じゃないような感じがして、でも「これは相手が相手なりにこんな私のことを褒めてくれているんだ」と思い、なんとかことばを返さなくちゃと思って、よくわからない返事をしてしまう。なんだか居心地が悪くなり、その場から消えてしまいたくなる。
私の人生にはそんな場面がたまに出てくる。
私は「立派」になりたくて本を読んでいる訳ではないし、自分のことを「えらい」とも思った事がないし、むしろ「頭が悪く」知らないことがたくさんあるので本を読んでいる。
「すごく」もないし、「とても無理」まで言われてしまうと、相手と私の距離はすごく遠くなってしまったような気持ちになる。
本を読める人と読めない人との分断。
世界の果てから相手の声が聞こえてくる。
声が遠くて、水中で聞こえるようなくぐもったその声は、私の脳にうまく達することができずに、単なる音として響いて、その後は何を話したかよく覚えていない。
個人的には本を読む事=えらいことではない。と思う。
世の中には本を読まなくとも、文章が読めなくても、どえらい人がいっぱいいると思う。
この世に生きてるだけで、生命を持続させているだけでみんな賞賛に値するのではないか。拍手。クラップユアハンズ。
私が欲しいのは、たぶん関心をもってほしいこと。
本を読んだことは褒めなくていいから、本を読んだ感想を話したい。
そして相手もそれを聞いて思った事を何でもいいから話してほしい。
ただそれだけでいい。
夫はそれができる人だ。
それが一緒にいる時の心地よさのひとつなんだと最近気づいた。
そして私はひとつ間違いをおかしていたことに気づいた。
私も同じ事を子どもにしていた。
子どもが本を読んでいる時に「えらいね」と自然にことばに出していた。
そうすると子どもはあまり嬉しそうな顔はせずに「そんなことないよ」と頼りなさげな声を出して、小さくなっている。
「これはいかん!」
と思い、なるべく本を読んでいても褒めないことにした。
だって本を読む事はえらいことではないから。
子どもも読みたいから読んでいるだけだ。
ある一定の行為を褒め続けるというのは、ある種の呪いをかけているようなものだと思ってしまう。子どもはいい子になりたくて親に褒められたくてそこから逸脱できなくなってしまうかもしれない。例え本を読まなくても「大好き」だし生きてるだけで「えらい」と思うし、それをうまく伝えたい。
褒めなくなってからは、読んでいる本の内容を尋ねたり、思った事を聞いたり、何でその本を読もうと思ったのかを聞くようにした。
すると、子どもは褒められた時より嬉しそうに「この本のおもしろいところはね」「このキャラクターのこんなところが好きで」「友達にすすめられて読んだ」と話してくれるようになった。
熱心に本の内容を話してくれる子どもの顔をみるだけで、私は幸せになる。
いろいろなカタチの幸せがあるなと年を重ねて感じている。
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