丁寧に不器用にはがす
はたらく。
はたらくについて考える。
私らしいはたらき方ってなんだろう。
自分の中ではたらく時に大事にしているものとか、ルールみたいなものが「私らしさ」につながるのだろうか。
私らしさって何だろう。
この年になっても自分の事がよくわからない。
そんなに自分の事がわかっていないと生きていけないものなんだろうか。
私は道端のダンゴムシに問う。
ダンゴムシは丸くなる。
少なくとも私とダンゴムシはかなり違う生き物だってことはわかる。
ころころ。
私はなるべく丁寧にしたいと思う。
私が言っている「丁寧」というのは、ミスを少なくとかそういう事務的な事ではおそらくない(現に私はミスばっかりして夫に怒られている)
相手の大事にしている価値観を
卵のようにころころと一緒に転がしてみる
一緒にたゆたってみる
「あー子供の事が大好きなんだな」
「料理の事ならとことん頑張れるんだな」
「まじめにやらない人が許せないんだな」
「話を聞いてほしい人なんだな」
もっともっと小さな事でもいい。
「お風呂は熱めが好みなんだなー」
「せんべいはぬれせん派なんだ」
「五木ひろしのコンサートは絶対行きたいんだな」
「集団の集まりはちょっと遅れて登場したいんだな」
「起き上がり方はこっち向きからがいいんだな」
「何はなくともまゆげだけは書いておいてほしいおしゃれな人なんだな」
そういう事に付き合う。
付き合ってみて、ひとまずそれを覚える。
覚えていることを「覚えてますよ」と伝える。そしてそれをしつらえる。
その人の居心地がよいところを探していく。
なんでこんなことをしているかというと、はがしたいから。
私が仕事で出会う人は100%近く堅苦しい窮屈なものがついている。
私の仕事は作業療法士という職業で「病気」とか「障害」とかそういう堅苦しいやつがみんなどこかしらについてくる。
その人に付随しているものを把握しておくことは専門職として十分大切な事なのだけど、その人のそれだけではない、フィルムの中身やシールの裏っ側を私は知りたい。
その取りにくい包まれたものの、ペロッと取りやすい場所を何とか探り当てて、その人自身が本来持っている生命力みたいなものを見つけたい。
それは丁寧に付き合うことで自然と見えてくるような気がする。
気づいたら勝手にはがれている時もあるし、強固に包まれていて時間がかかる時もある。
「病気」や「障害」でない自分が出てきた時に、この「病気」や「障害」は影をうすめて、もっと別の何かに変わっているような気がしている。
そんな場面を私はたくさん見たい。
不器用ながらも
卵のように一緒にころがしているうちに
その人の中身が
ひょこっと顔を出して
自由に羽ばたいていく瞬間に
私はやりがいを感じているのだと思う。
迷ったときにはいつでもそこに立ち返るようにしたい。
そんなに自分がわかっていなくてもきっと大丈夫。
殻をやぶって出てきた時に
居心地が良ければ
もうそれは自分であるのだから。
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