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そのおうちは高いお山の上にあって、車幅ギリギリの細いくねくねとした道を登っていくと辿り着く。

道はところどころ地面のアスファルトがでこぼこしていて、草が生え、走っているとかたかたと私の車が揺さぶられる。少しでも運転を誤ると、ブロック塀の壁にすったり、タイヤが道から脱落しそうでこわいので、私は慎重にスピードを落として車を進める。最後の道は両脇に古く使われなくなった工場と平屋のトタンの屋根のおうちに挟まれて、その道の行き止まりまで行くと目的のおうちがある。

目の前には竹林が広がっている。一段高い場所にびっしりと生えた竹林は、夏の日差しを遮って影を落とす。家の周りには、小さな盆栽がいくつも棚に置いてある。その数は30個ではきかない数かもしれない。どれもよくみるとていねいに手入れがされているようだ。

玄関はインターホン、すなわちぴんぽんがない。
「こんにちは〜」と言いながら私は家主が出てこなくとも、返事がたとえなくても、がらっと引き戸になっている網戸を遠慮なくひいて靴を脱ぎ、暗い手すりのついた廊下を歩み、奥の部屋にひたひたと足を運ぶ。

「なに、きたの」

「そろそろ来ると思ってた」

和室が連なっている。
手前の部屋には仏壇と低い座卓と2人がけのソファがある。

「オレオレ詐欺に気をつけて」と鉛筆で書かれた紙が貼ってある。その下に3人の女性がにこにことした顔のかわいいイラストが書いてあり、名前が記されている。孫の名前だ。

ソファにまた杖が置きっぱなしになっている。彼女は自分の相棒をすぐ忘れていってしまうようだ。

私は杖を手に取って、奥の和室の介護ベッドに座っている声の主に渡した。

声の主。彼女はどうやら人嫌いで有名らしい。

彼女のケアマネさんは、いつもあきれたように私との電話口で彼女のことをこぼしている。
「デイとか絶対行かないって......まぁ、前からですけどね。こんな状況になって、ご主人も自分のことで今せいいっぱいで、だからお風呂も入れられてあげられないでしょ。膀胱炎になっちゃって......お風呂に入れないんだから、デイに行ってお風呂に入ってもらった方が、清潔も保持できるって遠方のご家族も一緒に説得してくださっているんですけどね......またどうせ行かないんでしょうけど」


「くまさんだけなんです」

「くまさんだけが最後の砦なんです」

「様子だけでも見てくれるのは本当にありがたい」


「また何かあったら教えてください」


最後の砦にしては、私は随分と丸腰だし、だいぶ貧弱な様相である。

なんなら、すでに白旗すら振っているかもしれない。


まず血圧や体温を測る。
その時に彼女は決まって自分が具合悪いことを望んでいるような発言をする。
「え?血圧......そんな数値はおかしいでしょ」
どこをどう見ても聴診器から聞こえるコロトコフ音は「122」という数値を刻んでいた。おかしくはない。むしろとても理想的でいい数値だ。そして体温は36度8分だったのでそれも伝えた。彼女は続ける。
「さっきまで微熱があって、37度あったんだよ。ここのところずっとそう。熱がずっと続いてるんだ」
でも私が測ると37度をさすことはない。だから大丈夫であると伝える。

「そっか。具合悪くないのか」少ししょんぼりした表情を見せた。ご期待にそえなくて申し訳ないと伝える。

彼女は、自分の不調はどこか理由があるはずだと探したいのである。それはまるで山崎まさよしさんの「one more time one more chance」の曲のようでもある。むかいのホーム、路地裏の窓。新聞の隅。こんなところにいるはずもないのに。

不調ではない。

これは加齢だ。

加齢によって全てはおきている。
でも彼女はそこが腑に落ちていない。
こんなに忘れっぽくなった自分に、こんなに足腰が弱った自分に、こんなに家庭での役割が担えなくなった自分に。

何か原因があるはずだと。

でも、それが見つからない。

「できるようになったらやるんだよ」

「こんなにできないんだからさ、やっても意味ない」

「主人は起きてろって言うけども、起きててもやることがないんだよ」


「できるんだったらやってるよ。でもできないから寝てるしかない」

そう言って、私の目の前でもすぐそのままベッドに横たわろうとしている。その時の顔は幼いいたずらっこのようだ。にやっとしている。私の反応を見ている。私が行動を止めることをわかって、ことばをボールのように乱暴に投げてくる。

正直見立てはぎりぎりだ。
私はこの仕事を続けていて、いくつかわかるようになったことがある。

それはこの人が今後、どのような経過を辿るのかが。

なだらかなスロープが見える。

少しずつ坂道をおりていることがわかる。

そして、それは何をしても、私やまわりがどんなに手を尽くしても。


抗えない道であることが見えている。

目の前の彼女は近いうちに、おそらく家で過ごせなくなるだろう。

人嫌いで、誰にも会いたくない、施設にもお世話になりたくない、親戚や友達にも会いたくない。

そんな彼女は唯一なぜか、私が週一回家に尋ねることを許している。

最後の砦。

荷が重たすぎやしないか。

40分。

運動や会話をだましだましやる。

運動できない日もある。

彼女が話したい時がある。

不毛な会話だ。会話の内容は「このまま寝ていたい」「もう生きていてもしょうがない」「若い人には私のことなんてわからない」「できない人の気持ちはわかってもらえない」の不毛のオンパレードだが、それでもどこか笑顔が私たちの間にはある。

「私はまだわからないです」と率直に伝える。

「くまさんはわからないと思う。くまさんが私の歳になったら、私の言ってることを思い出してよ」と返される。


「そうすることにします」と私も返す。


彼女と同居している夫に帰り際にいつも言われる。

「あんたが来るのは待ってるようだから、ひとつあきれずにまた来てください。頼みますよ」

私は笑顔で彼をねぎらって、家をあとにする。


細く危ない小道を来た時と同じように帰っていく。

ゆっくりと坂道をくだる。




私の友人が

人生は四季に例えられるようだと、最近そんな話をしてくれた。

冬の時代。

私がお会いする方たちはそんな刻の渦中にいる。


冬の日差しは日照時間も少ない。ひかりより闇の時間が長く、動物たちも活動が停滞する。彩り豊かな植物たちも裸になり、本来の姿を露わにする。いてくつような寒さは肌にさしこみ、雪が落ちて真っ白に染められ、山も川も田畑も家も全ては冬化粧に包まれる。細雪は音を吸収し、全てを静寂に整える。ほのかでやわらかな雪あかりは澄み切った星空と対比して、どこかさみしさとやさしさを伝えてくれる。


冬。

失われたもの。

かつてあったもの。

もう2度と取り戻せないこと。

この先

いつか訪れるであろう

「さようなら」を。

誰にも止めることのできない

おわかれを。


わかっていても、あらがえない。

わかっていてもいるしかない。


私はただ見ている。


かなしくとも


さみしくとも


心がちぎれそうになっても。


そしてそんな私も同じ場所に向かっている1人であることも。


全部全部


痛みを共にしながら。


私も「好き」を。


あなたからもらった
143I love youを。


置いておきたいと思う。


大好きな何人かのnoterさんのアカウントが
立て続けに
この先
更新することが
叶わなくなってしまった。


でも別れではない。


あなたはあなたでなくなったと感じても

ことばを失っても

私はあなたを見つけるよ。


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それが私からのお返事。


また会いにいくからね。

会ったら共に語らおう。

会ったら共に泣こう。


とびきりの笑顔を


見にいくからね。



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