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餃子は酢で食べるし、美しく許すことだってできるかもしれない夜

私は目を疑った。

そして私は私のポンコツぶりに、幾度となく落胆してしまう。

その日は、美大のスクーリングで都内の大学のキャンパスを訪れた。訪れたはずだった。
キャンパスに到着してから、スクーリングの抽選に外れていたことが事務員とのやり取りで発覚した。......このことが何を意味するかというと、本日、私は授業を受けられないということだ。「せっかくここまで来てもらったのにすみません」と若い事務員さんが残念そうに声をかけてくれた。事務員さんは何も悪くない。悪いのはどう考えても私である。

メールを確認すると大学側からの連絡通知を発見。私の完全な確認不足。自身のありえないミスに愕然としながら、私はふらふらと新宿の世界堂という大きな画材店に辿り着き、スケッチブックを購入した。そして、今できる範囲の学習を宿泊先のホテルで取り組んでみた。

授業が受けられないのだから、すぐさま自宅に帰宅しても良かった。
しかし、私はこの日、人に会う約束をしていた。夫に連絡を取り、そのまま宿泊させてもらいたい旨を伝えた。

彼女と会うのは2回目。

昨年お会いする約束をしていたが、都合がつかなくなり、機会を逃していた。そして初対面は友人のイベント会場だった。

そんなことを思い出しながら、タブレットで授業を見ていたらそのまま寝入ってしまった。ハッと起きて、時刻を確認する。

集合時間にはまだ若干の余裕がある。

私は持参していた本を寝転がったままおもむろに開いて、ぼんやりとした頭で文字の羅列を追った。手の中にある本は小さくて薄くて重さも程よいので、仰向けで見ていても手も疲れないのだ。

 わたしを空腹にしないほうがいい。もういい大人なのにお腹がすくとあからさまにむっとして怒り出したり、突然悲しくなってめそめそしたりしてしまう。昼食に訪れたお店が混んでいると友人が「まずい、鬼が来るぞ」とわたしの顔色を窺ってははらはらするので、鬼じゃない!と叱る。ほら、もうこうしてすでに怒っている。

「わたしを空腹にしないほうがいい」くどうれいん著

世の中には2種類の人間がいる。

お腹がすいて怒り出すタイプの人間と
お腹がすいて怒り出さないタイプの人間、だ。

私はおそらく後者であり、夫や娘はおそらく前者である。

食に対する熱意が高い人が、私は嫌いではない。

おいしいものが食べたい。
どこにおいしいものがあるのか知りたい。
どうやって工夫したらおいしくなるのか知りたい。
旬のものをどうやって手に入れるのか、できる限り手を尽くしたい。

私がそうではないから。

私は舌が雑なので、どんな食べ物でも割とおいしく感じてしまう。そうではない人たちの食への探求ぶりやこだわりを聞いてる時間は、なかなかにして楽しく有意義な時間となる。

食と生は切っても切れないものである。

食へのエネルギーが高い人は

生に対しても同様に高いエネルギーを感じる。

私がお会いする高齢者の方たちも100歳を超える方がめずらしくなくなってはきているが、やはり長生きする方は、食への欲が持続している印象がある。

私は今夜、彼女と会う場所をこちらから提案していた。理由は単純で、また「あの餃子」を食べたかったからだ。

前回スクーリングで訪れた際に食べた町中華の餃子。

舌が雑でも、こだわりがない人間でも、また食べたいと思わせたあの餃子。


その餃子は醤油をつけないで食べる。

餃子というものは、醤油と酢とラー油がテーブルに置いてあって、それをつけて食べることが私の中では習慣になっていた。その手順は当たり前すぎて疑う余地のないものであった。

しかし、そのお店のテーブルには、醤油の存在が見あたらなかった。

私は不思議に思い、店員さんに醤油がないことを尋ねた。

すると若い女性の店員さんは手慣れた手つきで、お酢さしを迷わず手に取った。
お酢さしを小皿に傾け、どぼどぼとたっぷりそそぐ。

そのあと、胡椒入れを手早く取り、パラパラパラパラとたくさんふりかけた。

あっという間に小皿の中に、胡椒の湖みたいな風景が広がった。

透明な液体の中にたくさんの胡椒が自由に泳いでいる。

私は驚いて、横にいる店員さんを見上げた。

店員さんは「これにつけて食べてください」とごくごく自然に私に伝えた。それはまるで、これが世界のスタンダードな方法であるかのような確かさがあり、力強いものでもあった。

私はそのまま素直にたっぷりとした酢に餃子をつけた。

その餃子は、私が今まで食べた餃子のどれよりもおいしかった。

肉汁も皮の厚みもお酢との相性も何もかもが良かった。

約束していたお相手も、ここのお店のことを知っていた。

しかも知っていたどころのレベルではない。昔、近くにお住まいであったようで、よくお惣菜を買いに来ていたという情報を耳で聞いたのは、そのお店で彼女とご飯を食べた帰りだった。

リチさん。

リチさんとお会いした。

リチさんとずっと本の話をしたかった。

彼女の読んでいる本はこのnoteの海の中でも、断トツにシンクロ率が高かった。

私が持っている本。
私が関心をもっていた本。
私は知らなかったが、気になってしまった本。

彼女の読んだ本はだいたいこの3つのどこかに入る。

私は彼女が何を本に求めているのかを、実際にお会いして確かめたかったのだと思う。

 ふと思ったのが、私にとっての読書とは、ということだ。私にとって読書とは、自分の言葉を探すこと、かなと思っている。私はなかなか自分の気持ちを表現することができない。言葉が見つからない。だから本を読む。本を読んで自分の中に沈んだ言葉たちを掬い上げる。

リチさんのnoteより


私も同じだ、とこの記事を読んで思ったのだ。

私の抱いた気持ちと、リチさんがここに書かれている気持ちは全く同じではないかもしれない。でも、この文章にとても私は共感してしまっていた。私がなぜここに文章を書くのかと問われると、ことば以前のことばにならない想いをなんとか不器用ながらも書いてここに置いておきたいからだ。

本を読むと深い森に入る。

その森は、日の当たる明るい場所と、木が生い茂って暗くなっているところがある。

私は日の当たる明るい湖の水や、木になっている果実を手に取り、まじまじと眺める。

そして咀嚼する。私の中で、また違うエネルギーになってそれがわたしのことばになる。

ただ一つだけ、忘れてはならないことがある。それは、暗いところがあるということ。私は本を読んでもいつもすっきりとした気持ちにはなれない。

何か物事を学んだり、技術を得たり、白黒とコントラストがはっきりとした答えがあるような本。
そういう本ももちろん人生の中で必要な時は読んだことはある。

ただ、個人的に趣味として読みたい本は、そのような本ではなく、むしろ迷宮入りがさらに迷宮入りになるような、読んだあとに自分の中での問いが育つようなものを読みたいなと個人的には感じている。

森は常に暗闇を含んでいる。

さらに森は深くなるのだ。

リチさんとなぜ私たちは本を読むのだろうか、というお話をした。

そして仕事の話をして

noteの話、

共通のnoterさんの話、

安楽死の話をして

体のこと、心のこと。

バランスを取りながら生きることについて、私は彼女の話を聞きながら考えていた。


中華料理屋さんから、リチさんを駅まで送りがてら、もう一つの目的地の最寄駅のスタバに寄る。

スタバは閉店間際であったが、親切な若い店員さんが「お店は閉まるけども、お店の横の座るスペースは空いてます」と教えてくれて、私たちは飲み物を買い、椅子に腰掛けてしばらく話し続けた。

リチさんは昔「鉄仮面」というあだ名がついたことがあるそうだ。

昔と今と、彼女の生活はがらりと180°くらい趣きが変わってしまっている。そんなことを受け入れたくない気持ちと受け入れざるを得ない気持ちと、でも、受け止めて進んでいきたい気持ちの狭間で、ゆらゆらとゆらめいている彼女は、私の目の前で、やや困ったような、でもささやかな奥底にある力強さを内包しながら、そして、まるでやわらかい月のような、そんな複雑な笑顔で微笑んでいた。

年月を経て、鉄も変化してきたのかもしれない。

それはいいも悪いも、かなしみも怒りも、喜びも。作用したのだろうなと想像する。

「許し」について、私は春ごろに頭を悩ませていた。

人を許すこと。
自分を許すこと。
世界を許すこと。


許すことの向こう側に怒りがある。


 ようやく人生のことがわかってきた。(あと何度こういうことを言えば気が済むのだろうか、わたしは。)人生は結構、わがままにやるやつの勝ちで、もう一方は何らかの形でそれを許す以外の選択肢がなく、あとはいかにかっこよく、美しく許してやるか。という側面があるのではないか。そうだとしたら、わたしはいま、好き放題やった代償として、こんどはいかに許してやるか試されているのかもしれない。

同著p.60「何度でも夏がわたしを繰り返す」


春。私は怒りをかなしみに変えようと思っていた。

しかし、最近は、やはり怒りは怒りとして、無理にかなしみにすることもないのではないかと、私自身もゆらゆらと変化している。


「最近、くまさんが読んで良かった本はありますか?」


お別れの時刻が近づく。しんとした夜のお店の横のベンチで静かに尋ねられた質問に、私は咄嗟に気の利いた答えが出てこなかった。


今だから思う。あの時話した「鬱の本」もよかったけれども、このくどうれいんさんの本も良かったですよ。


駅のホームへ続く階段で彼女を見送った。



そのあと、ビルの間に風が吹いて、私は長めの横断歩道をゆっくりと歩いた。


私はお腹が空いて怒り出すタイプの人間たちのことをふと思い出した。

向かい側の飲み屋さんの喧騒を聞きながら、お金持ち御用達の小綺麗な病院の横を通り過ぎた。

そして、今夜2人で作り出した、控えめでささやかな時間のことを思いかえした。


リチさんの「最近よかった本」
次の日は快晴だった

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