見出し画像

自分軸で考えること、安全とのつきあいかたについて、子供との会話から考えてみた

先日息子と夕飯時にお話ししていた時の内容を、今日は書いてみたいと思っています。

息子は、思い起こせば保育園や小学校低学年の頃は、日中どんなことが起きたのか、どんなことを考えていたのか、聞いてもさっぱりな子でした。

「あのねーパズルしてたの。」
くらいしか言わなかったんです。毎日。

そんなにパズルしかしてないのか?!って心の中でつっこむ日々でした。

まあ、ずっと変わらずそんな調子なので、私は息子の保育園や学校での生活が今一つ見えてきませんでした。それはそれで仕方ないかと当時はあきらめていたのです。

小学校高学年になった今。


私が聞かなくても学校生活をかなり詳しく教えてくれるようになりました。

しかも過去の出来事も「あの時こう思っていたんだー」と説明できるようになっていたのです。


それを聞いて『あの時はことばにできなかっただけで、ちゃんといろいろ感じたり考えたりしていたんだなぁ』と思いました。

親としては、こういった会話から我が子の成長を感じます。
そして、何より話を聞くことがとても楽しいのです。

それで小学校の話に戻るんですけどね。


この日は

学校の先生はずるい


という話をしていました。

どうずるいのかというと

「先生はよく僕たちに廊下を走るなって怒るけど」

「先生こそ廊下を走っている時があって」

「そんなのずるいじゃんって思う。」

とのことでした。


私はひとしきり聞いたあと

じゃあ、なんで廊下を走ったらだめだと思う?

と一言尋ねました。


そしたら彼は意外そうな顔をして一瞬黙ってしまいました。


たぶん息子は私が共感してくれると思い込んでいたのかもしれません。
思わぬ返事の仕方に驚いていたのかもしれません。

答えない息子の代わりをしようと思ったのか、隣にいた娘が一言。

走ったら、廊下の角とかで出会いがしらに誰かにぶつかったりする可能性があるでしょ。

とこちらに視線も向けずにタブレットを見つめながらぽつりと話しました。

そして間髪入れずに夫も

僕も小さい頃に、廊下で走って衝突して相手の人が入院してしまった人がいるという話を聞いたことがあるよ。

と付け加えました。

出た!リスク管理の鬼たち!
(うちの夫と娘は様々なものに関しての安全性を気にするタイプの人たちです)

なんとなく多勢に無勢の我が息子。


「でも….先生もそうなんだもん。」とか細い声で反論しましたが

「『でも』はわかるけど、まず、なんでいけないって言われているのか理解した方がいいと思うよ。
怒られるからやらないやるとかじゃなくて、なんでこの人はそうやって言うんだろうって理由を少し考えてみてもいいと思う。
それを理解した上であえて、でも自分はそういう道を辿りたい、やりたいっていうのであれば、それは仕方ないとは思うけど。それを相手がやっているから自分もいいんだ。人がやっているのどうのこうのじゃなくて、
自分はどうしてこういう行動をしているのかというのを自分の中でひとまず考えてみたらどうかな。

と投げかけました。

母にとどめをさされてしまった息子は後日

「廊下を走るのは怪我をする可能性があるから良くない」

と自ら話していたので、なぜそのような行動を先生から注意されているのかは、少しは理解できたのかなとは思うのです。


今回の話で私が抱いた感想は以下の通りです。

・自分は我慢しているのだから、相手も我慢すべきという発想は、今後、周囲の人間に対して行動制限をかける可能性がある。

・相手がどのように動いているかに左右されるのではなく、己がどのように振る舞うべきなのかを、もう少し自分軸で考えたり、深く内省してほしい。

・そもそも「廊下を走らない」という先生のことばしか頭に入っておらず、その目的が理解できていないのかもしれない。

・先生は目的を話している可能性もある。もしくは話していないのかもしれない。そこまではわからないが、話していてもうちの子が理解に到達するところまで、至らなかったのかもしれない。

・先生や他の児童が走っているなら、ずるいとかではなくて自分なりの理由を踏まえて注意喚起を行う。

ただですね、私は思うんです。


小学校の頃、廊下、たまに走ってたなーって。

自分はやってたなと思うんです。

お友達とめっちゃ走ってたよなって。


ここからまた話が変わっていくんですけどね。


この
事故や怪我を起こすからという理由は
どんな活動にも当てはめようと思えば
当てはめられるんですよね。

生きてる限り、そういうリスクとは常に向かい合わせで私たちは過ごしている。

だから行動を制限するものって安全ではあるけど、非常に難しいなって思うんです。


最近公園などであれやっちゃだめ、これやっちゃだめって看板が書いてあって、そんなことも思い出すのですが。

大声で話さない
野球やサッカーなど危ないスポーツはやらないでください
金網や木に登らないでください
感染のリスクがあるのでみんなで密集しないでください
走らないでください
注意書きの一例

なんにもできないじゃんって思います。

私個人の意見としては、注意書きが過剰に書かれているほど「いやいや、公園じゃん」ってちらっと思ったりもします。

なにかしらその制限の中で遊ぶことはできるとは思うのですが

すこーし危ないこともやりだがるのが子供の心情。


逆に少し難しいことにチャレンジすることで、人は成長するし、わくわくするものです。

だからどこまで気をつけさせて
どこまで冒険させて
どこを助けるのかな
どこまで見ているのかなというのを

我が子によく悩んだりします。

毎日たくさんの選択の中から、概ね(全てではないと私は思っているので)自分で選んで活動している中で、まずは選択肢や可能性が自分が思っている以上にたくさんあることを知って欲しいなと思うんです。

そこには人とのかかわりが不可欠で

その中で自分はどうやって解釈して、行動に表していくのか。

みんなが言ってるからやってるからとかじゃなくて

いったんきちんと己に問いを立てて、それが自分にとって何をもたらすものなのか

都度考える癖をつけてほしいなとも思うし


それと同時に自分にとって
それは心地よいものなのか
心地よくないものなのか

快や不快などの感情が伴うのが人間であると思いますので

自分にとって必要だけど嫌な感じとか

しちゃいけないけどそこに執着しちゃうとか

自分がやるべきことやらなくていいこととは別に

感情がそこに乗っかっていくので、それをおきざりにしてほしくないなとも思うのです。

そして、先ほど少しふれたとおり、安全に生活しすぎて何も知らない何も経験していない人にもなってほしくないし

悩んで一度決めた選択肢がうまくいかなかったとしても、失敗したとしても

そのことでたとえ子供が自身を責めすぎていたとしても

そのまま受け止める存在でいたいなと親としては思いますし

その役割は大人になるにつれて
親じゃなくてもいいとはもちろん思っていて

受け止めてくれる仲間が増えてきて
親の出番も少なくなって


でも、どこかでまた頼られればいつでもそこにそのままいたいなとも思いますし

まあ、これは自分の子供だけじゃなくて、私はまわりの人にはそう思いながら生活しておりますので。

自分はそのように在りたいなと思います。


子供との会話から考えたこと。


くまはこんなこと考えますよーというお話を今日は書かせてもらいました。

読んで頂きありがとうございました。

サポートは読んでくれただけで充分です。あなたの資源はぜひ他のことにお使い下さい。それでもいただけるのであれば、私も他の方に渡していきたいです。