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「わかる」と「わからない」

土曜日の朝。

二度寝してしまって、夢と現実の間をシーソーみたいに行ったり来たりしている私の耳に、突然夫の声が鳴り響いた。

目をこすりながらぽやんとして起き上がると

「大変だ。つばめが落ちてる」

と告げながら、彼は私の顔も見ずにそそくさと部屋を出て行ってしまった。

私はのそのそとベッドから起き上がり、階段を重だるそうにとんとんと降りてパジャマのまま玄関に向かう。

玄関の扉を開けると夫がビニール手袋を手にはめようとしていた。

ふと足元を見ると丸い物体が玄関マットの上にちょこんと座っていた。

これが例の落っこちてしまった子か。

反対側から顔を見てみる。

やはり雛鳥は落ちてしまっていた。

どことなく不安そうに見える。

夫は「巣に戻せるかなぁ」と言って、部屋から組み立て式の簡易椅子を運んできた。椅子に乗って手を巣に伸ばしてみる。

「たぶん届くと思うけど...ねぇ、君も手伝ってよ」

私は「え〜わかったよ」と言いつつ、ビニール手袋を夫にならってぱちんと両手にはめた。そしてつばめの雛鳥をそっと両手で抱えた。この子のぬくもりが手袋ごしに伝わってくる。怪我をしていないか変なふうに曲がっている箇所はないか、少しだけ観察した後に、椅子の上に立っている夫の手に静かに手渡した。
雛鳥は少しだけ羽をばたつかせ、ささやかな抵抗を見せたが、そのまま夫の手によって巣に戻された。

戻るには戻ったが、体がきちんとおさまっていないのかもしれない...と、私はまた落ちた子の姿を見て不安になった。

「ねぇ、またあの子落ちちゃうんじゃないの?」

と私が尋ねる。

夫は「あいつだけ体が大きい気がする」と話した。「わざと落とされたわけでもないよね」とおそろしい可能性を口に出した。

...大きいと追い出されちゃうのか。

同じく私も体が大きいもの同士として、それが真実であったら、なんだか悲しいことである。

夫は「あいつ、すました顔してたよね。なんてことないですみたいな顔してた」と話したが、私には雛鳥は不安そうに見えた。同じものを見ていても受ける印象は大きく違うのだなとあらためて思った。


大きくて、そして落とされてしまった可能性。


私は目を瞑る。


また、あの雛鳥が、まわりの雛鳥たちあるいは親鳥の力によって、巣から転がり落とされてしまう場面を想像する。


落とすもの。

落とされるもの。


排除するもの。

排除されるもの。


そのほんの少しの境目はどのようにして生じてしまったのだろうか。


そして、その境目は本当に確かなものなのか。


ふと童話の「みにくいアヒルの子」の子を思い出した。

一羽だけ、異なった姿の雛鳥がまわりのアヒルの子たちにつらくあたられて、絶望して、家族の元から離れる。離れて白鳥の水地に行き、水面を見ると自分の姿が変わっていることに気づく。自分はアヒルではなく美しい白鳥であったことに気付くと、それまでの悲しみから解放される。

というお話。

私は今は大人になってしまったせいか、この話を色々と揺らしてみたい衝動にかられる。


まず、この子は白鳥にならなくとも、まわりから排除されない手段もあったのではないか。

自分が劣位側にいて、相手の優位性に苦しむ。その苦しみを乗り越える方法として、自分が相手よりさらに優位に立つことが、果たして「いいとされる」結末なのだろうか。

優位に立って、自身がもし排他的に劣位側を攻撃あるいは逆襲するとしたら、これはただ自分のいる位置が変わっただけで、同じ悲劇の繰り返しであるのかもしれない。

「みにくいアヒルの子」の状態で。

みにくくても「あなたはそれでもいいんだよ」とどこかで受け入れられることはできなかったのかなと、ふと思ってみたりする。

この子がどこか他の場所に行った時に、たとえ素晴らしい白鳥の姿になっていなくとも「そんなあなたが好きだよ」と言ってくれる相手が、どこかにいるという想像を私はしてみた。

というか、きっといるに違いないと思う。

私は甘いのかもしれない。

先日食べたいちごのチョコレートのパフェくらいには、きっと甘いのであろう。

ある人がある人の話をしていた。

「あの人はどちらにもつかない」
「ある人とある人の意見があった時に、両方の意見を一度認める立場にいくよね」


私はそのある人とは友達で、いつもかっこよくて尊敬している人だから「確かにそういうところあるよね」と返した。


「わかる」と「わからない」

を曖昧にしたいと思っている。

わかってしまったら終わりのような気がしている。
ここ数年はずっとそんなことを考えている。

わかりそうになったら、またわからないを混ぜていく。
わかるとわからないのシーソーがあったとして、私はどちらかに偏らないように真ん中に立ちたいと思う。
みにくいアヒルの子なんて、幼少の頃に聞いて、昔はなんとも思わずにただそのままのストーリーとして受け止めていたが、今はよくわからない感じにしたいから、さまざまなifや可能性を物語に見出したいと、私は思っている。

相手のことをわかってしまうことはおそらく一生ないのだ。

相手は今いる場所から、毎日変化して

私も同じように変化している。

昨日のつもりでこちらが決めつけてしまうと

今日は全然違うあなたに

もしかして私は気づけていないのかもしれない。

特に我が子はそうだ。

昨日のあなたと今日のあなた

まるで違うよね。2人とも。

毎日、毎日新しいことに直面して

どんどん私の知らない世界を体験しているわけだから。


私はどんどん不純物になっていく自分を感じる。

そうなのだ、もう私は純粋ではない。

みにくいアヒルの子を純粋に受け止めていたあの頃には戻れない。

でも、それが大人になるということかもしれない。

それは決して悲しいことではないと思う。

自分の中に揺らぎを持てる自分が、私は嫌いではない。揺らぎの中で救われることが、おそらく目の前の相手にもあるかもしれないし、もしかして私自身も救われるのかもしれない。


毎日、ツバメの巣を眺める日課に、雛鳥が下に落下していないか確認する日課が加わった。


うまく飛び立ってほしい。
できればこの巣にいる子が全員。

私は今日も挨拶をする。

いつの日か巣が空っぽになるまで

私は日々見守ることしかできないが

「やあ」と声をかけて

お互いの世界を交差して、生きていくだけだ。

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