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ひとりひとりのものがたり

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仕事での出会い、出会ってしまった人たちの物語の断片を書き綴ったもの。高齢者のナラティブ。
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#老健

喫茶ブラジルと青いノート

私は20cm程度の茶色の紙袋を持って、作業テーブルに向かった。 丸椅子に腰かけて、隣の車椅子に座っている相手と目くばせをする。 その相手の女性は、短い白髪で目が大きく、小柄な人だった。私の行動をやさしい小動物のようなまなざしでじっと見つめている。 私は紙袋からコーヒー豆を取り出し、手動のコーヒーミルの本体へそそぐ。辺りがコーヒー豆のいい匂いに包まれる。 カラカラっときれいな軽い音を立てて、豆は本体の底へおさまっていく。 「さ、やりますか」 と私は言った。女性は

太っ腹の理由

新年になると、よく「今年の目標」を立てたりする。 私は昨年、手帳に日記を書こうと思っていたが、本当に3日位で坊主になってしまった。坊主は百人一首とうちの夫だけで十分である。 長続きしないとわかっていても、一応一年の節目となるので、他の人にも「来年はどんな年にしたいですか?」なんて、軽薄に尋ねてみたりしてしまう。 私は自分には今のところ「今年の目標」を立てていなかった。 その代わりと言ったら少し変だが、ある1人の利用者さんと、昨年末に今年のその人の目標を一緒に立てた。

あげものばあちゃん

「Wさん、ご飯の時間ですよ。」 「あげもの」 「Wさん、今日は晴れましたね。」 「あげもの」 「リハビリの時間ですよ、Wさん。」 「あげもの」 「今日のお昼はなんでしょうね。」 「あげもの」 最後のやりとりは合っていそうな感じだが、今日のお昼はうどんだったりする。 Wさんは当施設に入所してきて「あげもの」という謎のことばしか返さない変わったタイプのおばあちゃんだった。 こちらが何を言っても「あげもの」しか言わないのだ。 そしてとても無表情。 何が彼女を

ジェームスとボンドがいた日

ある日、私が勤めている施設の裏庭に、突如として2匹の子やぎがあらわれた。 体のサイズはとても小さく「メェ〜」と鳴く姿は大変愛らしかった。 田舎の老人保健施設では、心が躍るようなビッグイベントや目が覚めるようなハプニングが起こることは大変少なく、非常に牧歌的な毎日を職員も利用者さんも過ごしている。 東京から来ている非常勤療法士に「ここはガラパゴス(諸島)みたいだね。」と(おそらく半分バカにされながら)言われたこともあるくらいだ。 そこで彗星の如く現れたこの2匹の子やぎたちの