国家神道について(前編)

 江戸時代が幕を閉じ、近代という時代が日本史の舞台に登場した。西洋の技術や学問が日本列島に本格的に流入し、社会は大きく変わろうとしていた。当時は近代化に関する問題が山積しており、国家神道もそのうちの一つだった。今夜は、国家神道が作り上げられた経緯について考えようと思う。

 明治新政府の宗教政策は1868年3月13日の太政官布告に始まる。

此度 王政復古神武創業ノ始二被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度二御回復被遊候二付テハ、先ハ第一、神祇官御再興造立ノ上、追々諸祭奠モ可被為興儀、被 仰出候。(以下省略)

 要は「祭政一致をしますよ」「神祇官をまたやりますよ」と言う話だ。新政府は祭政一致路線をとっており、その流れで同月28日には神仏分離を目指す神仏判然令が出された(これはのちにかの有名な廃仏毀釈を招くことになる)。
 1870年1月3日には、神道を国教とし、尊王愛国思想を国民へ教化する大教宣布の詔が発せられた。教部省は大教宣布運動を高揚するために大教院を設置し、僧侶や神職を教導職に任じ、国民の教化に力を注いだ。
 だがこの流れに反対した勢力がいる。浄土真宗である。当時浄土真宗の中にもヨーロッパで本格的に宗教を学んだ人々がいた。かの島地黙雷もその一人である。彼は『三条教則批判建白書』でこのように述べている。

其ノ富強ト文物ノ盛熾ニ至ルハ、政家ノ管スル所ニシテ、法制ヲ詳ニシ学術ヲ励シ、百巧ヲ興シ物産ヲ殖スルニアリ。此ヲ教家ニ属ントセバ、人心ヲ正ス者果シテ誰ゾヤ。

 富国強兵殖産興業は政治の役割ではあるが、宗教は例外である。つまり、政教分離を説いていることがわかる。その上神道への優遇政策が不満を呼んだことから、新政府は、「神道は宗教ではない」と主張するようになっていく。
 1871年5月14日の太政官布告にはこうある。

神社ノ儀ハ国家ノ宗祀ニテ一人一家ノ私有ニスヘキニ非サルハ勿論ノ事ニ候処、中古以来大道ノ陵夷ニ随ヒ神官社家ノ輩中ニハ神世相伝由緒ノ向モ有ノ候へ共、多クハ一時補任ノ社職其侭沿襲致シ、或ハ領家地頭世変ニ因リ、終ニ一社ノ執務致シ居リ、其今村邑小祠ノ社家等ニ至ル迄総テ世襲ト相成、社入ヲ以テ家禄ト為シ一己ノ私有ト相心得候儀、天下一般ノ積習ニテ神官ハ自然士民ノ別種ト相成、祭政一致ノ御政体ニ相悖リ、其弊害不尠候ニ付、今般御改正被為在伊勢両宮世襲ノ神官ヲ始メ天下大小ノ神官社家ニ至ル迄精撰補任可致旨被 仰出候

 神職の世襲の廃止や全国の神社の序列化について述べられているが、私は文頭がポイントだと思う。要は「神社は国家の祭祀だから、国民一人一人の問題ではない」と言っている。この方針により全国の神社は、他の宗教を管轄とする文部省宗教局とは違い、内務省社寺局の管轄とされた。また、神道の独立教派であった神道十三派は文部省宗教局の管轄とされ、神道が「国家の祭祀」と「宗教」へ分離していくことになる。

そろそろ眠いので国家神道の続きはまた後日に後半出します。

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