見出し画像

同じ猫

同じ猫を見た気がする。

先程、タバコを吸いに外に出てみたら、猫がいて、いかにも切なげに鳴いていた。
最近、寝る前に窓の外から聞こえる声の主はこいつだったか。

15年ほど前、同じような茶トラの猫が家の周りをうろついていた。
僕はそいつのことが気になって、姿を見るや否やこっそり家の冷蔵庫からハムやらマグロやらをかっぱらい、よくそいつに与えにいった。

感謝するようなそぶりは一切見せなかったが、身体を少し触らせてくれたのは、そいつなりの温情だったのだろう。

同じ猫ではない。

そいつは当時、いかにも老いた様子の猫だった。もう生きてはいまい。こいつも、いかにも老いた様子の猫だ。

だけど、どうにも彼らは他人(他猫?)のようにも思えず、ハムを取りに帰るほどの計らいをする気は起きなかったが、僕は「死ぬなよ」とだけ声をかけて、フィルターの味がし始めたまずい燃焼物を携帯灰皿に押し込み、家に戻るのだった。

猫ほど他者という存在を体現した生きものはいないだろう。清々しいほどに他者だ。これほどまでに他者であると、それが入れ替わった個体であるとしても、なるほど同じ猫のように見える。彼らはまるで永遠の命を持っているかのように、しばしば僕の前に姿を現す。

"100万回生きたねこ"という話があるが、あれはあながちファンタジーではないのかもしれない。
他者とは、それがそうであるほど、命の線引きが曖昧になっていく。
生きているのか死んでいるのか、そんなことは一笑に付すかのように、彼らはそこに存在する。

きっと"彼ら"ではなく"彼"として認識してしまったとき、それは他者ではなくなる。
それは個体への愛おしさの始まりでもあり、悲しみの種でもある。愛は、対象を個として認識するための機能だ。

猫は尊い。
だから、猫は永遠の命だなんて言い出してしまうのだろう。彼らにはぜひとも、健やかにその命を続けてほしい。僕が死んだその先も、ずっと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?