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【読書7】今日も誰もが水たまりで生きている/高瀬隼子著「水たまりで息をする」

第165回芥川賞候補作にもなった高瀬隼子さんの「水たまりで息をする」が先日文庫化されたということで改めて読んでみることにした。

あらすじはこちら

ある⽇、夫が⾵呂に⼊らなくなったことに気づいた⾐津実(いつみ)。夫は⽔が臭くて体につくと痒くなると⾔い、⼊浴を拒み続ける。彼⼥はペットボトルの⽔で体をすすぐように命じるが、そのうち夫は⾬が降ると外に出て濡れて帰ってくるように。そんなとき、夫の体臭が職場で話題になっていると義⺟から聞かされ、「夫婦の問題」だと責められる。夫は退職し、これを機に⼆⼈は、夫がこのところ川を求めて⾜繁く通っていた彼⼥の郷⾥に移住する。そして川で⽔浴びをするのが夫の⽇課となった。豪⾬の⽇、河川増⽔の警報を聞いた⾐津実は、夫の姿を探すが――。

文芸誌「すばる」ホームページより

「すばる」でこの小説と初めて出会った時の衝撃は凄かった。

まず、ある日突然、水道水に嫌悪感を示しお風呂に入れなくなるという設定がとても斬新だ。けれども絶対にあり得ないかというと実際、世の中には様々な恐怖症があるわけだし、もしかしたらもしかして誰の身にも起こりうることなんじゃないだろうかと思わせる絶妙な設定。

そして、何と言っても主人公の夫がだんだんと汚くなって行く様がとてもリアルだ。文字だけでこんなにも五感(特に嗅覚)を刺激できるものなのか!と作者の描写力に驚愕した。

さらに結末、初めて読んだ時は「あらすじ」的なものも読まずまっさらな状態で読んだこともあり、え!と思わず声が出てしまった。そしてこの結末をどう受け止めて良いのか自分の中で消化しきれず読み終えてからもしばらくこの小説のことを考えていた。

当時、芥川賞候補作を全て読んでいたわけではないけれど、この作品が芥川賞を受賞しても全然違和感はないなと思っていた。
※結果的には、李琴峰さんの「彼岸花が咲く島」が芥川賞を受賞。本作は惜しくも受賞はならなかったが、高瀬隼子さんは「おいしいごはんが食べられますように」で第167回芥川賞を受賞された。

今回、結末を含めたあらすじを知った上で、改めて再読して、やはり凄い小説だなと思った。
誤解を恐れずに言えば別に面白い話ではないし、気持ちの良い話でもない(むしろ気持ち悪い)。でも存在意義のある小説だと思う。
まだ消化しきれていない部分はあるし、おそらく高瀬さんが書きたかった全てのことを理解できているわけではないけれど、2回読んで考えたことを少しまとめてみたい。


「普通」に生きることが求められる世の中で

昨日、たまたま駅で物凄い奇声を上げている男性がいた。病気だろうか?あるいはただの酔っ払いだろうか?はたまた狂人か?わからないがとにかくその場を離れようと足を早めた。気づけば周りの人たちも男性からあえて目を逸らし、こころなしか足を早めている。申し訳ないけれど普通じゃない人とは関わらないのが一番なのだ。
そしてこの後、多くの人は"普通じゃない男性"と出会ったことなどあっという間に忘れて普通の生活に戻っていることだろう。
普通と異常の間には簡単には乗り越えられない深く大きな溝があるのだ。

しかし、それは本当にそうなのだろうか。
本作を読むと意外と人は簡単に普通の生活から足を踏み外すのではないかと思ったりする。

本作の主人公の夫はある日突然「風呂には、入らないことにした」と宣言する。水道水が臭いし痒いし嫌なのだと言う。原因は明確には書かれないが、職場の飲み会でふざけた部下にコップの水をかけられたことにきっかけがあるようだ。

これまで普通に生きてきた主人公の夫はとても些細なきっかけで「風呂に入る」という当たり前の行為ができなくなり普通の人から転落し、社会から阻害されて行く。普通からの脱落、転落は一瞬なのだ。

中学生の頃、好きな男の子に太っていると言われたことがきっなけで拒食症になった同級生がいた。大学生の頃、女友達にニキビ痛そうだねと言われたことがきっかけで借金までしてエステに通うようになった友人を見た。
そんなこと?と思われるような小さな誰かの一言や些細な行動が誰かを「普通」から突き落とす。

しかし、よく考えてみればそもそも「普通」とは何なのだろう。そして、誰が決めるのだろうか。

本作では「普通」を求められる息苦しさというのが一つの大きなテーマになっているように思う。

主人公夫妻は共働きで結婚して10年経つが子どもはいない。朝は菓子パンを食べ、昼は職場でそれぞれ食事を済ませ、夜は弁当かスーパーの惣菜、居酒屋のテイクアウトで済ませる。フルタイムで働きながら食事をするのは大変だからと夫婦で話し合ってたどり着いた生活スタイルだ。しかしそんな生活を主人公の義母は「おままごのようだ」と言う。きっと義母が思う普通の夫婦生活とは程遠いのだろう。明確には書かれていないがきっと10年経っても子どもがいないことも義母は普通じゃないと思っている。

ロクに家事をしなくても、セックスをしてなくても、子どもがいなくても、夫婦二人が納得しているならそれでいいじゃないかと思うけれど世の中はそうさせてくれない。勝手に創り出した「普通の夫婦」という幻想にあてはめて、普通じゃないだの、おかしいだの関係ない人までが批判する。

夫婦生活に限らず人生だってそうだ。
ちゃんと学校に通って、仕事をして、結婚をして、子どもを産み育て、毎日毎日人様に迷惑をかないように暮らし、社会の役に立てればなお良い。そうやって生きていくことが当たり前だと無意識のうちに刷り込まれている。
だからそこから外れれば一気に生きづらくなる。結局マジョリティからはみ出さず、いわゆる「普通」の枠内に収まっている方が生きやすい世の中になっているのだ。
そしてそのことがわかっているからこそ人は時に自分の本当の気持ちを押し殺し、何とか普通でいようとする。

厄介なのは「普通」の概念は時代や場所で時に変化しうるということだ。かつて流行った服やメイクで歩いたら奇妙な目で見られるように、かつてのように部下を厳しく叱ればパワハラと言われるように、あの時普通であったことは時が流れれば普通ではなくなる。また、自社の当たり前が他社では当たり前として通じないように、地域や所属するコミュニティごとに独自ルールが存在する。空気を読みながら今いる場所の「普通」を感じ取る。そしてその普通から外れないように自分自身をチューニングする。冷静に考えてみると私たちは何と難易度が高く息苦しい世の中に生きているのだろうか。

愛するということ

では、普通に生きるのが当たり前の世の中で、ある日突然、自分の身近な人が「普通」から足を踏み外したらどうするだろうか。

本作の主人公は風呂に入らなくなった夫を激しく責めることはせず、とにかく寄り添う。病院に連れて行くことも、相談することもなく、途方に暮れながらもただ寄り添う。どれだけ夫が臭くなっても何とか生活を共にしようとする。

一方、義母(夫の母)はなぜすぐに病院に連れて行かないのかと主人公を責める。

普通から外れた夫を何とか認めようとする妻と無理やりにでも普通に戻そうとする義母、一体どちらが正しいのだろうか。

相当愛が深くなければ臭くなって行く人と暮らすことなど無理だよなぁ…と思いながら読んだが、一方で主人公は本当に夫を深く愛していたのだろうか?という気もしてくるから不思議だ。

主人公と夫は激しい恋愛をして結ばれたわけではなく、何となく付き合い、何となく結婚したという設定になっている。さらにそこから10年の月日が穏やかに流れており、おそらく二人は激しく喧嘩したことも情熱的に求め合ったこともないのだろうということが読み取れる。ただ緩やかな川の流れに身を任せて二人は共に生きてきて、これからも生きて行くと思っている、そういう関係だ。

もちろん主人公は夫を大切に思っている、そしてこれからもずっと二人で穏やかに生きて行くものだと思っている、ただそれが愛しているということなのかは主人公自身も自信がなかったのではないだろうか。

ただ当たり前に続くと思っていた日々が壊れることの怖さ、まさに主人公が描いていた「普通」が破壊されてしまうことの怖さから、夫が普通でないことを認めることも、夫の手を離すこともできなかったのではないだろうか。

一方で、病院に行かせろと言う義母もまた息子を愛し心配していることは間違いない。(もちろん世間体みたいなのもあるとは思うが…)
主人公夫婦の生活を「おままごと」と揶揄する義母は普通に生きることこそが正義と考える嫌な奴!とも思ったけれど、「普通」の枠内に収まっている方が生きやすい世の中であるということをよくわかっている人なのだと思う。だからこそ酷く足を踏み外す前に何とか普通に戻すことこそが妻の役目であると考えている。これはこれですごく真っ当な考え方と思ってしまう私も普通という幻想にがんじがらめになっている証拠なのだろうか。

血の繋がった親子の愛とは異なり、夫婦の愛というものはとても不思議なものだといつも思う。赤の他人である二人がある日出会い、共に生きていくことを誓う。それを人は運命と呼ぶけれど、運命はきっと脆くて儚い。いつ他人に戻ることもできる二人はとても長い時間をかけていくつもの経験を共にし、いつまでも一緒に生きていくことが当然であるという状態を作り上げる。ただ好きだとか、愛しいとか、そういう感情を越えて信頼や期待、相手に対する依存や責任など色々なものが入り混じって愛というものは構成されているような気がする。いつまでも一緒に生きていきたいというよりも、いつまでも一緒に生きていくことが当然と思っている主人公の感覚や、長い時間をかけて培ってきた二人だけの関係を簡単に手放したり変容させたりすることができない主人公の気持ちが何だかとてもわかるような気がした。

今日も誰もが水たまりで生きている

さて、物語はやがて思いがけない結末を迎えることになるが、ネタバレになるといけないので触れるのは控えたい。

その代わりにあらためて「水たまりで息をする」というタイトルに込められた思いを少し考えてみたいと思う。

本作には「水」がたくさん登場する。

「水」と言ったときどんなイメージを持つだろうか。無色透明で清らかで我々の生活にはなくてはならないもの…そんなイメージを持つ人が多いのではないだろうか。

一方、「水たまり」と言うとどうだろうか。
一気に清らかさは失われ、澱んだ感じさえする。行き場のない場所に微生物を含めた多くの生き物が生きている。そして水たまりは永遠ではなく、時に形を変え、あるいは消失し、そしてまた生まれる。

主人公の夫は清らかな川を求めて都会から主人公の郷里へ移住する。しかし、田舎にもまた"水たまり"はあるのだ。
この社会自体が大きな水たまりであり、またその中に親族、家族、夫婦、職場、地域コミュニティといったいくつもの水たまりがある。そして、私たちは誰もが複数の水たまりの中に身を置きながら何とか息をして生きている。

大地から湧き出し、川を流れる清らかな水の中で生きて行くことができたら素晴らしいけれど、水たまりの中で生きることに慣れてしまった私たちは結局水たまりの中でしか生きられないのかもしれない。

主人公も主人公の夫も、そして読者である私たちも皆、今日もまた水たまりで息をしている。

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