話を簡単にしてはいけない

大人は身近な問題に対して、その多くが一筋縄ではいかないことを知っている。

だが、大きな問題になると、突然子供のように一刀両断したがる。


夫婦関係や親子関係・組織内の人間関係・難しい顧客への対応・・・人生において右か左か簡単に解決策を見いだせない事は山ほどあります。

外部の人から「こうしたらいいのではないか」と正論めいたアドバイスをされても「部外者だからそう言えるけれど、そうは言ってもなあ」と悩む。

大なり小なり、そうした問題を誰もが抱えているものです。


ところが原発存続や日中関係・普天間移設など大きな問題になると、きっぱりと意見を決めて「こうすべき」と一刀両断の意見を述べる人が少なくありません。

しかも、その「きっぱりとした意見」というのがたいてい二極に分かれるのであって、三極や四極・五極・・・になることはまずない。


新聞やテレビ・ネットを含めたメディアは「勝ち組・負け組」や「右か左か」「YESかNOか」といった分かりやすい分類を提示した方が読者の注意を惹くのでしょうが、身近な問題でも簡単に答えを出せないことはいくらでもあるのに、大きな問題をそんなに簡単な構図にしてしまっていいのでしょうか。


そもそも私たちが「問題」と呼んでいるものの多くは、長期にわたる私たち自身の行動や発言の結果であることが多い。

だから、それは「問題」というよりむしろ「答え」と言ったほうがいい。


妻が大事にしていたブランドバッグを誤って傷つけたような場合は、謝罪して再購入してあげればおそらく一件落着するでしょう。

しかし、長年連れ添った妻が突然「離婚したい」と言い出し、驚いた夫が離婚を拒否しているような場合は、妻には子育てや家事に対する夫の姿勢や言動などへの積年の想いが詰まっており、「離婚問題」が勃発したのは長年の結婚生活に対する結果であり「答え」である訳です。

両者共に納得・満足するような解決策を見つけることはたやすいことではありません。


同様に、世の中で「問題」と言われていることの多くは、過去の施策や不作為などの長年の積み重ねによって生じたものであり、時間の経過と共に利害関係者は多岐にわたり、複雑に絡み合っていますから「右か左か」なんて簡単に決められることはまずない。


原発存続の問題にしても、エネルギー確保やCo2削減・震災への安全性・廃棄物処理・テロ対策・電気代高騰の可能性・・・等々、挙げればきりがないほど数多くの要素が絡みます。 

地元の人々にとっては、どれほど科学的根拠を並べて安全と言われても「絶対安全と言われながら福島は被災したじゃないか」という「感情のもつれ」もある。


各々の利害関係者の要求や想い・科学的データを根源的かつ冷静に分析しながら議論を進めると共に「クリーンエネルギーだけで日本の電源を安定かつ低コストで確保することは本当にできないのか?」「高度な安全性を担保できる地下埋設型小型原発建設の可能性はないのか?」と言った多少なりとも前向きかつ丁寧な議論に持っていく努力が必要なはずですが、メディアは「賛成か反対か」で簡単に切り取ってしまいますし、市井の人々もその構図に乗って議論をしています。


さまざまな要素を踏まえると安易に二項対立で論じられる案件ではないはずですが、冷静沈着な声の多くは賛成・反対の二項対立の渦に完全に飲み込まれてしまっています。


あらゆる思想性というものは、二項対立に決着をつけることにあるのではなく、さまざまな利害得失要素を抱え込んだ葛藤の中で、多種多様な選択肢を踏まえて思索することから始まるものだと思います。

それは身近な問題でも大きな問題でも同じです。


高等生物ほど複雑な物事を考えることができ、人間はその頂点にあります。 

ただ、人間の脳の重さは1200~1500gで体重の2~2.5%でしかないのに、摂取エネルギーの20~25%も使ってしまう浪費家なので、脳科学の知見によれば「脳は放っておくと、すぐに楽をしたがる」のだそうです。

だから、論理的な判断を積み重ねていく「アルゴリズム」的思考よりも、限られた簡易的情報に基づいて判断を下す「ヒューリスティック」処理をしてしまう傾向があるのですが、ほとんどの人間はそのことを自覚すらしていないと言われます。

安易な判断に基づいて確固たる信念を持ち、それを変えない方が、脳が楽だからです。


情報が氾濫している現代は、自分が気に入った情報を簡単に見つけることができてしまう訳で、それについて深く思索することなく、一つの考え方に固執して確信を持った方が脳生理学的に楽なので、我々はあまりにも簡単に一刀両断してしまいがちなのです。


脳科学の知見は、きっぱりと何かを言う人は、自分で考え抜いた訳ではなく、メディアなどの受け売りであることが多い、ことを指摘しています。

人生経験の長い方は同意頂けると思いますが、人が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときですから、確かにその通りだと思います。


そもそも脳は、複雑な事を考えれば考えるほど、あちらこちらへと迷い、考え方が変遷するものなのです。考えてみれば当然ですね。


迷う、悩む、というのは高等生物であることの証でもあります。


「ブレない」人であることを、我々はほめ言葉として使うことがありますが、脳科学的には「脳を使っていればいるほど我々は悩み、ブレる」のです。


さまざまな要素を考慮しながら考えて考え抜いた末にたどり着いた意見を持っている人は、今の意見を持つに至った思索の変遷(ブレ)を述べることができます。

あらゆる可能性を吟味し、真剣かつ徹底的・根源的に思索していれば、いかなる問題でも考え方が変遷しているはずで、もちろん考えが変遷してきたことを自ら認めることもできるし「今後絶対に自分の意見が変わらない」と断言することにも躊躇がある。


だからこそ、本当にあらゆる要素を検討した上で考えて考え抜いた人というのは、意見の違う相手に対しても謙虚になれるのです。


でも、かたくななまでに自説を譲ろうとしない人は、自説に確信があって「自説を譲らない」のではなく、自説を形成するに至った自己の変遷を言うことができない(=本当に自分自身で考えて考え抜いた訳ではない)ので「自説を譲れない」のです。


大きな問題は積年の行動による結果であり答えであり、それを解決するためには複雑に絡み合ったものを一つ一つ丁寧に解きほぐしていく作業が必要である。

それが知性を発動するということではないかと思います。


ビジネスにおいても「ようするにどういう事だ」とか「一言で言うとどうなるのだ」という問いかけが頻繁になされますが、そういう手法に馴染まない物事は多々あります。


安易に話を簡単にしてはいけない。  私はそう思います。

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