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自分は自分の考えを他人に伝えるのが難しい。

自分の特性として様々なものがあり、その多くは他人も感じていることである。
その中でも一つ「自分の考えを他人に伝えるのが難しい」こと。これは自分が考えている・想像しているだけではなく検査の結果なども示しているので``客観的に正しいこと``なのであろう。
難しいのはわかった。皆からも正しいのはわかった。

ところで、それは何故なのか?

これが今考えるテーマだ。
この事象に対しては最近考え始めたので浅い部分が大きいかもしれない。けれど備忘録若しくは頭の整理として書いていこうと思う。


1,出力というもの

自分が実行しようとしている「考えを他人に伝えること」つまり出力とは、自分の中にある思考をそっくりそのまま持ち出して相手に伝えること、という風に脳は感じ動いているのだと思う。
ししてそれは揺るぎようのない事実なのだと。1+1=2と同じくらい疑いようのない。
それに対し、定型発達・一般的な出力の方法とは、まず思考を扱いやすい形に成形して、媒体(言語や発音・場所やサービス)に適合させていくのだ。そして何が可能か・不可能かを吟味して、相手という受容体に対して最適化させ、その末に``出力``が行われるのだと自分は解釈している。
そしてそれが無意識で行われているのだ。

ここに、決定的な溝がある。


2,成したいこと

自分側はただ思っていることを出したい。しかし一般的にはそうじゃない。複雑かつ正確かつルールに則った動きが無意識下で行われており、根本から存在意義が違うのだ。
そして出力に必要な媒体の側もそちらに合わせた複雑かつミスを許さない構造になっているものが多い。ここがポイントだ。
ただ思っていることを出したいというそれでだけで努力したところで、まったく違う世界で生きている媒体の上で正確に動けなければ媒体そのものから拒絶されてしまう。その結果、出したいのに結果的に何も出力できていないという状況が発生する。


3,結局何故、何が苦しいのか

単純な考えだ。やりたいのにできない。それだけだ。
体を動かしたいのに縛られている。息がしたいのにできない。それと変わらない根源的な欲求に常時抑圧されているのだ。
そしてそれが社会的には「自分の考えを他人に伝えるのが難しい」だけで片付けられてしまい。そこで終わる。
これこそができない理由、苦しい理由への回答なのではないかと今は思う。


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