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僕が「仲間の本性を知っている」とハッキリ言う理由

何年か前から「本性ほんしょう」って何だろう?って、ときどき考えている。

人間の本性ってなんだろう?っていうのもあるし、具体的な彼/彼女の本性ってなんだろう?っていうのも考える。今回は僕の考える(僕の信じたい)人間の本性について。


本性ほんしょう」と聞いてどんなイメージがありますか?

本性。よく使われる用法だと、普段は隠しているその人のホンネ、本来の姿・考え方みたいなイメージじゃありませんか?だいたいネガティブな文脈で使われますよね。
例えば、、、それまで良い人に見えてた人が、急に怒ったり暴れたり、何か犯罪・不祥事を起こした場合などに「本性をあらわしたわね」などと言ったりします。それはつまり「いつも良い人ぶってるけど、本当はそういう悪い人なんだね」というニュアンスです。
上記のようなシーンと出会う時、ときどき、僕は少し立ち止まって考えてしまう。「それって本当にその人の本性なのかな?」って。


まずは辞書を引いてみる、、

デジタル大辞林先生いわく、

ほん‐しょう〔‐シヤウ〕【本性】
1 《古くは「ほんじょう」とも》本来もっている性質。生まれながらの性質。ほんせい。「本性をあらわす」
2 本心。また、正気。「酔って本性を失う」

とのこと。
ふむふむ、普段皆さんが使っている「本性」の使い方、イメージとだいたい同じなんじゃないかな?と思います。でも、1と2の例文ってある意味で逆のことを言っているのに気付きましたか?

1の例文「本性をあらわす」では、普段見えてない部分が本性と言っているんです。普段は「偽物」で、何かのキッカケがあって「本性をあらわす」んですね。
一方で2の例文「酔って本性を失う」では、普段見えている部分が本性と言っているんです。普段は「本性」で、お酒によって「本性を失う」んです。
つまり、普段見えている部分/見えていない部分、そういう区別は「本性」の意味には含まれないんですよね。

そして「本来持っている性質」ってよく考えるとなんなんでしょうか?なんだかボンヤリしてませんか?人間は色んな性質を持っていて、例えば父親だったり夫だったり上司だったりギタリストだったりが同じ人間の中にあります。彼は元々少年ですけど、青年になって、今では中年になっていて。状況によって熱い男だったり、冷徹な男だったりもします。優しかったり、厳しかったり。「本性(=本来持っている性質)」ってなんだか分かるようで分からない。


きっかけ

なんでこんなことを考えるようになったのかというと、カイジという漫画の、とある話がきっかけでした。それはこんな話です。(以下ネタバレ注意)

暴力団組長を裏切って駆け落ちした男女のカップルがいました。名前をタツヤとアリサと言います。組長はアリサに惚れていてたくさん貢ぎましたが、アリサは愛するタツヤを選び、駆け落ちしました。怒った組長は2人を捕まえて「愛よりも剣」という「リアル黒ひげ危機一髪」みたいなゲームをさせます。ゲームに勝てば2人を許すと言って。

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愛よりも剣

「愛よりも剣」は2人がそれぞれ穴が空いた箱に入るところから始まります。穴は足に2ヶ所、胴体に5ヶ所空いてます。
(足2+胴5)×2人=14ヶ所
で、14ヶ所穴があります。
その穴に9本の剣を刺していき、全部刺しきって、生き残れば勝ち(組長に許してもらえる)というゲームです。この14ヶ所の穴のうち、ランダムな9ヶ所には鉄板が入っており、剣が止まるようになっています。つまりこの鉄板の入っている穴はセーフで刺さらず死にません。9枚の鉄板と9本の剣なので、最高に運が良ければ1本も体に刺さらず済みます。
そして足であれば鉄板がなくて実際に剣が刺さってしまっても死にません。胴体の場合は死んでしまいます。剣を刺す場所は、2人が交互に選びます。選ぶのは自分の箱の穴でも、相手の箱の穴でもかまいません。

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賭博堕天録カイジ 和也編 1~2巻


結局、2人とも憎しみあってしまう 

この「愛よりも剣」というゲームが実際に始まると、タツヤは最初、アリサを守ろうとして「自分の足に刺せ」と言います。ですが、ゲームが進んで実際に自分の足に剣が刺さってしまうと恐ろしくなって「自分の胴体に刺せ」とはとても言えなくなります。そして足であれば鉄板が無くて刺さってしまっても死にはしないので「アリサの足に先に刺してほしい」と言うようになります。これを受けてアリサも「守ってくれると言ったのに、このクズ」と言って遠慮なくタツヤの胴体を指定するようになります。

こうして2人はどんどん憎しみあっていき、最後にはお互い胴体に剣が刺さることになって、2人とも死んでしまいます。これを見て組長は「真実はギリギリの状況、断末魔に宿る。人間は追い詰められて本性をあらわす。所詮人間なんて自分だけが可愛い。人を裏切るものだ」と言い切ります。


どっちが本性?

このお話を読んで、僕は人間の本性ってなんだろう?って考えるようになりました。

「愛よりも剣」のような極限状態、命のかかった状況で他人を思いやれるのは素晴らしいことだけど、そんなに強い人間ばかりじゃない。むしろ、そんな極限状況で正気を保っていられる人間なんてめったにいない。そんなに追い詰められたら誰だってオカシクなってしまうはずです。そうであれば、それって人間の本性なんでしょうか?僕には本性とは思えなくて。
組長は「それが人間の本性だ」と言うでしょうが、僕は「違う。それは本性を失っているだけだ」と言い返したい。

例えば。普段は思いやりがあって愛情を見せるけど、追い詰められたとき、人を裏切り自分の事しか考えられなくなるAさんがいるとします。組長が言うにはAさんの本性は「裏切る人間」「自分だけが可愛い人間」です。でも僕は「思いやりがあって愛情深い人間」がAさんの本性だと思いたい。仮に追い詰められた時に豹変してしまうとしても、それは弱さではあるかもしれないけど本性ではないと信じたい。


コインの裏表なのかな?って

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結局、コインの裏表なのかもしれません。片面が思いやりのある人間、もう片面が裏切る人間で、そのどちらに「本性」というラベルを付けるか?ってだけの話なのかも。実際には裏表合わせたコイン1枚全部でその人は出来ている。でもだからこそ、僕は普段の思いやりある一面に「本性」という名前を付けたい。だって、その方が人間を好きになれそうだから。


あなたの仲間の本性はどちらでしょう?

生きていると色んな仲間に出会います。学校や職場で。仕事や趣味で。その中には苦難に陥った時、テンパってイライラしたり自己中心的になったりする人もいるでしょう。そのとき、あなたは仲間の「本性を見た」と思うでしょうか?それとも「本性を失っている」と思うでしょうか?


だから僕は「仲間の本性を知っている」

結局は何を「本性」と考えるかは人それぞれ。その人の価値観・人間観次第だと思います。アリサに裏切られた組長にとって「人間の本性は裏切り」であって「愛だの恋だのはウソ」でなくてはならなかった。だから「裏切り」に「本性」と名付けたんだと思います。

でも仮に「本性」が「裏切り」だとしてしまうと、人間なんて信じられなくなってしまうし、常に相手の本性に怯えないといけなくなってしまう。それよりも仲間が普段見せている優しさが「本性」で、何かあって「本性を失ってしまった」ときにどうフォローできるか?助け合えるか?と考えた方が人間に希望が持てる気がするんです。

だから僕は「仲間の本性を知っている」とハッキリ言います。だって、いつも見せてくれる頼れる姿こそが僕にとって彼/彼女の本性だから。


おしまい

念のため、補足しておきたいことが2つあって、、、。

最初から騙そうとして近づいてくる詐欺師は今回の話とは別です。あくまで今回の話は、普段は信じられる仲間(恋人、友人、同僚、家族etc)が、何かのキッカケで豹変してしまうかもしれない。そんなときのお話です。
もとから騙すつもりで近づく人にはご注意ください!オレオレ詐欺とかね。

また、どの一面を本性と捉えてもどうしても馬が合わないっていう人と出会うこともあると思います。そういうとき、無理やり付き合い続けるべきとは絶対に思いません。だから逆に、もし信じられる仲間が出来たなら大切にしてもらって、何かトラブルがあって少し普段と違う一面が見えても「本性が分かった」という気になって切り捨てずに、少しだけ考えてみるといいかも?くらいに受け取ってもらえれば幸いです。

最後まで読んで頂きありがとうございました。
それでは、また別の記事で。

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