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ありたい姿を改めて考える。

走ること、ダイエットと向き合ううちに、自分のありたい姿を考える機会が増えた。走るを通して何をしたいか、ダイエットは自分のありたいを叶える手段と行き着くうちに、自分のありたいに向き合っていた。でも自分がどうありたいのかってのを考えた時に真っ先に思いついたのはダイエットでも走るよりももっと根本的な事だった。

ありがとうとごめんなさいが適切に言える人でありたい。

昔私はごめんなさいしか言わない人だった。(今もその気はたまにぶり返す。)自己肯定感がかなり低くて、何かとすぐに謝ってしまう。そんな事を大学時代にしていたときに、謝って欲しくない、ごめんなさいでなくてありがとうキャンペーンをしようと言われたときの衝撃は今でも忘れない。悪いことをしたら謝るべきとは思うけど、なにかをしてもらって申し訳ないという感情はありがとうに意識的に置き換えていきたいと思ったのである。後、ものすごく腹が立つ大学時代の同級生がいて、その人が何で腹立つのかを考えた時に、『ごめんなさいとありがとうが言えない人だから』というのは忘れられない。そいつのことは今でも反面教師にしているかもしれない。

自分の近くにいる人を大切にしたい。

私は極度の寂しがり屋だと思う。だから自分の周りに人がいてほしいなあと思うし、そのために相手の居場所を作るべきだという思考に至る事も。結局自分に目が向いてしまっている側面もあるのだけど、自分のそばにいてくれるひとに、『クシヤマがいてくれて嬉しい』って思ってくれたら嬉しい。そう思って貰えるように価値の提供が出来る人でありたいなあと思うのです。学生の時に何がしたい?と言われた時に、漠然と社会を変えたいと言ってみたり、政治に関心をもって関わろうとする人を増やしたいとか学んでいた学問柄話していた事も。今そのレベル感で、何がしたい?と言われた時にこんな社会にしたい、そのためにこんな事したい!ははっきりと出てこない。でも、自分の近くにいてくれる人を大切にしたい。漠然とした広い社会は変えられなくても、一人ひとりと向き合って一歩となりを明るくしたいとは思います。

ワークとライフは一体なのか。

学生時代、休みのために仕事をする人になりたくないと思っていた。働くとは何なのか、ひたすら向き合っていた時期があるからこそこんな思考に至る。自分の中のやりたいがはっきりしないからこそ、仕事は仕事で自分の時間は自分の時間という様な線引きがはっきりとできてしまうのだと思う。働く事をたのしんで、というよりも働いたことによって得た対価で、ワーク以外のライフの時間を充実させる、、これって私が望んでた姿だったのだろうか。でも走る事を通じて生計を立てたいという考え方は今のところはない。決して今の仕事をしたくない訳ではないし、前の部署もいまの部署も自分がやりたいと思っていた事を学び、価値の提供をしていく場とは思っている。けれど、会社でのワーク以外にやりたいことの存在がむくむくと大きくなっていくのである。

嬉しかったことば。

私が1年半越しのサブ3.5を達成した時のFacebookの投稿にすごく心を動かされた。

自身の目標の為に頑張りながら…周囲に走る楽しさも伝えてくれる素晴らしいランナーょ♡

この言葉どのおめでとうよりも嬉しかったし、これからもこんなランナーであり続けたと思ってる。私が目標を達成したいというのもあるけれど、走るを通して沢山の人を巻き込んで、楽しい空間を作って行きたいとは思うのです。この自粛期間、楽しいを中々作れない。無力。楽しさを消費する側の人間のひとりだったなと思う。ひとりでは何もできない、やっぱり自分の周りにいてくれる人は偉大だと思った。だからこそ、そんなみんなと楽しめる何かを作れる人になりたい。

具体的に何かをしたいはないけれど。

けど、普通を大切にしたくて。当たり前だと思ってたことが凄くありがたいことだと感じる事が増えた東京生活。ここのところは次の記事に書けそうなので、次はこの普通を大切にしたいという感覚について書こうかと思う。

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