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魚を与えるのでもなく、釣り方を教えるのでもなく、私は魚釣りの楽しさを語れる人になりたい。

魚を与えるのではなく魚の釣り方を教えろ、という格言がある。魚を与えてしまうと自律した人間になれないので、魚を自分で釣れる、自律した人間になってほしいと願いが込められているのだと思う。そしてこれはきっと正しいことなんだろう。

この格言が有名になったからか、魚の釣り方を教えたい人が世の中に氾濫している気がする。
自分の方法こそもっとたくさん釣れますよ、カッコよく釣れますよ、美味しい魚が釣れるのはこの方法しかないみたいな感じで。

なんの責任も追わなくていいなら人に物を教えるのは基本的に楽しいことだし、フォロワーが付くと承認欲求がとことん満たせるのでコスパの良い趣味なんだろう。



釣り方を教えたい人が増えてきたことによって生まれた弊害が、自分の釣り方が絶対正義と信じている人が世の中に溢れてしまったこと。
言うなれば、釣り堀にフィッシャーマンが溢れててどこにも魚がいない。レッドオーシャンも過ぎ去って死海と言うべきか。


巷に溢れているノウハウの独自性や正確性はさておき、正直どれもこれも似たように見えてしまう。
自分の経験をもとに発信しているつもりでも誰かのコピー感が拭えなかったり、尖った部分のない八方美人感が僕との距離を作ってくる。

この距離を埋めることができる物がいわゆる人気のあるものになる。距離を埋めることができる物とは、内容の面白さではなく発信する人の独自性、そして独自性の高さで情報の質を判断しているのが現状だと思う。
そのことを理解しているのか、独自性を出すために自分にキャッチコピーをつけている人がどんどん増えているように思う。

なので、最近よく思うのは今の世の中に必要なのは釣り方を教えることではなく、釣りがいかに楽しいかを見せられるかということ。
ノウハウにまみれた世の中ではノウハウに価値はなく、その人の独自性やストーリー性が重視される。言い換えると自分にどれだけ興味を持ってもらえる内容を発信できるかが重要になる。そしてそれは楽しさを語るのが最適解だと僕は考えている。

子供は大人の真似をするのはそれが面白そうだから、興味を惹くから。

好奇心は人を惹きつける第一歩だと思う。もしフォロワーを増やしたり、承認欲求を満たしたいのなら、魚釣りの楽しさをひたすら語る方がいいと思う。少なくとも僕はそっちの方が好きだ。

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